爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「武士の起源を解きあかす」桃崎有一郎著

武士という人々は実に日本の歴史時代の半分を支配していたのですが、それではその「武士の起源」は何かということは、あまりはっきりとしてはいません。

 

かつての教科書では「地方の富裕な農民が成長し、土地を守るために一族で武装し武士となった」と書かれていましたが、それはまったく違います。

また、都の武官から生まれたという説もありますが、これも確証がありません。

歴史学者たちはみなこの問題を避けているかのようです。

 

武士は武力を持つ者、武芸を行う者ですが、この「武芸」とは剣術だと考えている人が多いのでは。

江戸時代では確かに剣術修行を行うということがありましたが、もともとは武芸とは「弓馬」だったのです。

つまり、馬に乗って弓矢を射る。

戦国時代の合戦絵巻にはあまり見られませんが、源平時代の戦となるとそのイメージが湧いてきます。

 

そして、大事なことはこの弓馬の術は非常に難しく長年の鍛錬が必要となるということです。

古代の戦争でも弓馬だけでなくその他の武器も使われましたが、その中でも弓馬は花形でかつ限られた人々のみが使える兵器でした。

そして、その習得には長い時間がかかるということで、素人には難しいものでした。

この鍛錬ができるのは、生活のために田畑を耕すような農民ではありえず、ほぼすべての時間を武芸鍛錬に使うことのできる有閑階級でしかなかったのです。

 

すでに飛鳥時代には全皇族と廷臣には弓術と馬術の鍛錬に励むことが義務とされていました。

とはいえ、この階層がそのまま武士へとつながっていたわけではありません。

 

奈良時代から平安時代にかけて、東北地方では蝦夷との闘いが長く続けられていました。

この蝦夷たちこそ、この弓馬の戦いに長けた者たちでした。

彼らに対する大和朝廷の軍は弓矢の扱いも劣り、苦戦が続きました。

そのために、朝廷側も弓馬の術の鍛錬を勧めることになります。

そして、その候補者として高位の廷臣だけでなく、「郡司、庶民」の中からも選ぼうとしています。

このような階層は地方の富豪とでも言うべき人々であり、墾田私有の許可を受けて私有地を増やしてきた人々が出現していました。

彼らが武士の出現には直接結びつくものです。

これを著者は「有閑弓騎」と名付けています。

このような階層の人々は、かつての地方豪族であった国造たちの子孫や、百済などから渡ってきた渡来人の子孫であったようです。

彼らは生活の糧は使用人たちに任せ、自らは武芸の鍛錬を重ねるようになります。

 

王公卿相の家、のちには「王臣家」と呼ばれる、皇族や最上級の貴族たちやその子孫の家の人々とは、その警護や武力行使のためにつながっていくこととなります。

 

王臣家、有閑弓騎、その他の有力者たちが成長することになったのは、墾田永年私財法からです。

これ以降、開墾適地の奪い合い、そして開墾や耕作のための人民の奪い合いのためにも武力が必要となりました。

これには王臣家などの有力者の他にも国司として赴任していた貴族自体も加わってしまいました。

さらに、国司が集めて都に送る租税を力ずくで奪うということも常態化してしまいます。

 

実は、このような王臣家というものは奈良時代には存在できませんでした。

それどころか皇位継承者すら減り続けたのでした。

しかし、平安時代になり特に桓武天皇などは非常に多数の子どもを作ったため、ほとんどの皇子は朝廷に官職を得ることもできず、地方に流れて王臣家を作ることとなりました。

あまりの多さに朝廷も費用負担をすることができず、臣籍降下と称して源氏や平氏として放り出すことになります。

彼らが自活の道を求めて地方の豪族に入り込み、勢力を形成したのが武士の始まりと言えるようです。

 

平安時代後期に起きた平将門の乱というものが、武士の時代の先駆けのように見られますが、実はその事件が起きるかなり前から、国司を襲撃して殺してしまうという事件が頻発していました。

加害者はいずれも郡司や王臣家の末裔といったすでに武士化していた人々です。

徒党を組み暴れまわる群盗と化し、その挙句に国司殺害までやってのけたのですが、それを取り締まる権力もほとんど無いかのように弱体化しており、すでに地方は無政府状態でした。

平将門は彼らと同じようなことをしただけなのですが、ただ「新皇」となると言い出したために朝廷の逆鱗に触れて討伐されただけでした。

 

将門も平氏の一員としてはっきりとした系図もある者ですが、これも王臣家子孫としてのネームバリューを活かし、地方の豪族と結んで勢力を伸ばしました。

これには当時の習俗であった婿入り婚の制度も関わります。

いかに皇族の子孫であるといってもほとんど力もないのですが、それが地方豪族の娘と結婚しそこに婿入りすることでその地域の支配をすることになります。

豪族側もさして名のある先祖でもない氏より、源氏や平氏などの名門の名だけを得ることになり、その地域での勢力拡大に有利にしたいという思惑がありました。

 

このような地方豪族と皇族出身とはいえ中央では生きる術のない源氏や平氏の人々が結びついて武士と言うものができてきたようです。

なお、その「地方豪族」という人々をよく見ていくと、古代の豪族の末裔らしき名が散見されます。

女系ではありますが、名は表に出なくなったとはいえ、遺伝子的に見れば産まれてきた子供の大部分をその一族などが占めることになるので、実質的に後の世で武士階級を形作っていた人々はこのような人たちだったのでしょう。

何百年かの間中央政界からは忘れられたような人々ですが、これが武士として力を持ったということで、復活したとも言えそうです。

 

奈良時代から平安時代、墾田を私有することを許す法律はできたとはいえ、班田収授が行われる方が主流だったというイメージを持っていましたが、とんでもないことで権力者たちがどんどんと私有田を増やし人々も無理やり支配下に入れて田の耕作をさせるという時代だったようです。

いつの時代も庶民はしいたげられていたということなのでしょう。