爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「六国史 日本書紀に始まる古代の『正史』」遠藤慶太著

朝廷が作らせた歴史書としては日本書紀が有名ですが、その後も続けて正史が作られました。

全部で六つの正史が作られましたが、その後は途絶えています。

日本書紀続日本紀日本後紀続日本後紀日本文徳天皇実録、日本三大実録を指します。

その対象範囲は天地の始まりから平安中期の887年までです。

 

この本ではこれらの歴史書が誰によりどのように編集されてきたかということを詳述し、さらにその後の時代においてどう扱われ、どのように利用されたかといったことまでを述べていきます。

 

最初の歴史書日本書紀養老4年(720年)舎人親王により天皇に提出されました。

国史編纂ということはすでに推古天皇の28年(620年)に聖徳太子蘇我馬子によって開始されました。

これらは現存せず実際にどのようなものであったかも不明です。

日本書紀につながる直接の編纂事業は、天武天皇の10年(681年)に歴史書の編纂が命じられたことに始まります。

最初は川嶋皇子、忍壁皇子らに命じられたのですが、天武天皇の時代には完成せず、持統、文武と受け継がれようやく養老になり元正天皇の時代に完成しました。

そこまで39年の歳月を費やしました。

 

日本書紀はまとまった形としては最初の歴史書ですが、それ以前にも多くの書は作られていました。

日本書紀編纂にあたってもそれらの史料が参考とされました。

上記の聖徳太子蘇我馬子によって作られた「天皇記」「国記」は完成したかも分からず断片も残っていませんが、それも重要な参考文献だったはずです。

他にも地方や豪族の記録も参考とされたと考えられます。

重要であったのはすでに先行して史書として確立していた中国や朝鮮半島のものです。

中国の後漢書魏志は言うに及ばず、朝鮮半島でも日本に関係の深かった百済史書も伝わっていました。

これが百済紀、百済新撰、百済本紀の三書で百済史書と呼ばれています。

これらの内容すべてが妥当かどうかは分かりませんが、日本が関係する部分については日本書紀の記述は十分に考慮されていることが分かります。

と言うか、「都合の良いように解釈し合わせた」と言えるようです。

神功后紀はその時代を合わせるために在位期間を調整し、邪馬台国に女王が居たという魏志の記述に合わせようとしているのは有名な事です。

朝鮮半島情勢は日本と関係の深かった百済が徐々に劣勢となり、新羅が優勢となりますが、日本書紀には一貫して新羅を悪党として非難しており、正当な判断は難しくなります。

それだけ関係の深かった地域でありあちこちに差しさわりがあったようです。

 

続日本紀以降の五書は時代も限られた範囲だけを扱うものとなり、内容も朝廷の法令をそのまま載せたり、皇族や貴族の訃報を経歴と共に載せたりと、あまり歴史書としての性格はなくいわば「官報の整理」に過ぎないと見ることもできます。

しかしそれだけに無味乾燥のように見えながらも詳しく検討すると面白みもあるもののようです。

日本後紀は嵯峨・淳和・任明の三代にわたって書き続けられましたが、人物の批評に鋭いものがありました。

位階を持つ官人の死去にあたりその人の官歴や続柄だけでなく、人柄や性向の論評まで触れられています。

これは中国の歴史書を意識して書かれていたのかもしれません。

漢書などでも本紀・列伝の中で人物の生涯や子孫について書かれた後、「賛に曰く」「論に曰く」「史臣曰く」として人物の論評を選者が行うということがありました。

これはもちろん、史記司馬遷が「太史公曰く」として書かれたものを踏襲したものでした。

それらの史書も当然当時の人々の意識には強くあったのでしょう。

796年に藤原豊成の息子、継縄(つぐただ)が右大臣正二位で70歳で亡くなったのですが、その評は「政治上の実績は聞こえず、才能も識見もなかったけれど批判は免れることができた」と辛口です。

821年に藤原種継の息子、縵麻呂(かずらまろ)が従四位下で54歳で亡くなった時は「

「人となりは愚鈍で事務能力もなく、大臣の子孫というだけで高位を歴任したけれど名声を上げることはなかった。ただ酒と女性を好んで他には考えがなかった」とボロクソでした。

 

日本三大実録が菅原道真も関係して出来上がったのですが、その頃には藤原氏主流が摂政関白として朝廷の実権を握ることとなり、それとともに朝廷内の職務もほぼ同一の家に固定してしまうようになります。

そうなると朝廷の歴史というものも意味が無くなり、各家の日記と称する記録があれば十分ということになってしまい、その後は国が作らせる正史というものは成立しなくなります。

何度か、天皇が発意して作らせようとしたこともあったのですが、実現はしませんでした。

その代わり、六国史などを研究することは天皇や貴族を中心に盛んになり文章を専門とする家だけでなく摂関家につながる高位の貴族でも行われるようになり、三条西家が名を馳せることにもなります。

また紫式部源氏物語なども実際には実在の天皇や貴族が登場しているとも言えるような内容ですので、なかば歴史書のようなものと捉えられることもありました。

 

徳川家康も大阪の陣に出陣した時に同時に六国史などの史書を新たに書き写すことを公卿や僧に命じるなど、重要視していたことが分かります。

その後、水戸家がそれを受けつぎ水戸光圀大日本史を編纂したことにつながります。

明治以降も歴史書の保存などは政府も関わりましたが、それ以上の研究は民間に任されています。

中国や台湾は政府自らが歴史編纂に関わるという伝統に基づいて行動しているのと比べれば姿勢の違いが見えるようです。