爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「刀伊の入寇」関幸彦著

平安時代に大陸から刀伊という異民族が攻め込んできたということは、確か高校の歴史の教科書にも載っていた覚えがありますが、それについての詳しい説明も何もなかったようです。

同様に来襲してきた元寇は大きな扱いであったのですが、それほどまでの被害は無かったからでしょうか。

 

実は朝鮮半島や大陸から日本列島への侵攻というのは、9世紀に新羅の入冦、そしてこの11世紀の刀伊の入寇、13世紀の元寇と続いています。

しかし、その相手が異なるとともに、日本側の迎え撃つ体制も大きな差がありました。

9世紀にはまだ律令体制の軍制が残っており、一般農民を徴兵した兵士が当たりました。

元寇を迎え撃ったのは鎌倉幕府御家人と呼ばれる武士たちでした。

しかし、刀伊の入寇の時にはまだ武士という人々が十分に育っておらず、中央貴族が地方に下向して力を蓄えだした頃であり、そういった「ヤムゴトナキ」兵や、地方で成長しつつあった武人たちが討伐にあたりました。

 

刀伊といわれたのは女真族で、朝鮮半島北部から中国東北部に住んでいた民族でした。

その当時は朝鮮半島は高麗の時代でしたが、北部では契丹女真が争いながら勢力を伸ばしていました。

徐々に契丹(遼)が強くなったために女真族は圧迫され、朝鮮半島の方に逃れ、それが高麗を襲うこととなりました。

それがさらに対馬海峡を越えたのが日本への刀伊の入寇でした。

なお、「刀伊」という名称は、高麗が彼らを「東夷」と呼んだものが文字が変わって刀伊となったもののようです。

 

1019年寛仁3年、突然女真海賊が対馬壱岐から北九州一帯を襲いました。

当時中央政界は藤原道長がわが世の春を謳歌していた時代でしたが、中央政府はほとんど何の対応もできず、ただ神仏に祈祷をするのみでした。

実際に応戦の指揮をとったのは、当時の大宰権帥大宰府の次官)であった藤原隆家道長の甥でしたが父の道隆、兄の伊周が相次いで疫病で亡くなり、道長との政争に敗れての大宰府下向をしたばかりでした。

しかし隆家は公卿らしからぬ武勇の人であり、率先して刀伊の賊の応戦にあたり、撃退したのでした。

 

隆家の指揮下に参じたのはやはり同様に九州に下向していた貴族や、それより早く地方に流れ来てその地で勢力を伸ばしていた「住人」と呼ばれた在地の豪族たちでした。

彼らはその後地方での勢力を強化し武士化していくことになります。

なお、戦いに勝利した時の恩賞は必ずなければならないものですが、元寇の際には御家人たちに遣わす領地も無かったためにその不満が増し幕府討伐にもつながってしまうのですが、この当時はまだそういった風習がなく、恩賞としては「官職」や「位階」の授与であり、「所領給与」というのはまだ無かったのが政府にとっては運が良かったと言える点だったのでしょう。

 

海賊たちの獲物は財宝などではなく、奴隷として使役したり売買するつもりの人々の捕虜でした。

数百人の住民が連れ去られたのですが、日本から退去した女真賊は半島に戻ったところを待ち構えていた高麗の水軍に打ち破られ、捕虜の人々もその際に海に投げ落とされてほとんどが死亡するということになりました。

それでも生き残った女性の体験談を聞き取った文書も残っているということです。

 

ほとんど知られていないような事件ですが、そこにはやはり多くの人々の活躍や被った辛苦があったのでしょう。