東日本と西日本の違い、特に東京と大阪の差というものは今でもかなりあるようで、数々の話題にも上がってきます。
実は、このような地域差というものは古い時代からずっと存在しており、しかも時代が下ってきて地域間の交流が多くなっても、それで差が小さくなるわけではなくかえって拡大するということもあったようです。
このような地域性の違いというものを、古代どころか原始時代までさかのぼって考察しています。
日本史というものを説くときには、どうしても中央政府がどのように発展していったかという「中心史観」、そして社会が徐々に発展してきたかという「発展史観」によって語られることが多かったのですが、各地域に着目した地域史を重要視することも必要です。
そのような各地域へ着目していけば、地域と地域の境界というものも重要であることが明らかでしょう。
現生人類が日本列島に移ってきたのは4万年ほど前と考えられます。
それは7万年前から1万5000年前まで続いた最終氷期のなかでも最寒冷期でした。
その頃には海面は現在より100mほども下がっていたために、北海道はサハリンから陸続き、対馬海峡も現在よりははるかに狭い海峡でした。
そこを通って北方や半島から様々な人々が狩りの対象となる動物を求めて渡ってきました。
多くの石器が発掘されていますが、その多様性は大きいものです。
しかし、約3万年前に九州の姶良火山が大規模な噴火を起こし、その降灰と気温低下で環境も大きな変化を受けます。
狩りをしてきた大型哺乳類がどんどんと少なくなって絶滅してしまいます。
そのため、食料としては中小動物を狙うしかなくなりました。
中小動物はそれほど移動もしないため、人間の方も動き回る必要がなくなります。
しかし問題なのは石器を作るのに必要な石材が得にくくなったことです。
これまでの石器を作ってきた良質なものは限定された地域にしかなかったのですが、半定住に近くなるとそのそばで取れる石材を使わなければならなくなりました。
これが、石器に大きな地域差ができてきた理由のようです。
その頃は、まだ海面は現在より40mほど低下していたので、今の瀬戸内海全体が陸地でした。
そこに住んでいた人々は他とは違った石器の製造技術を持っていたようです。
「横長薄片剥離技術」と言うその技法で作られた特有の石器は、その地方独特のサヌカイトという石材で作るのに適したものでした。
それで作られた「国府型ナイフ形石器」という独特のものが出土しています。
しかし、徐々に気温が上がってくると瀬戸内は海の底に沈みます。
そこに住んでいた人々も他の地方に移住していきました。
ただし、向かった方向は限られていたようで、九州西北部にはそのナイフが見られますが、九州東南部には見られません。
また、中国山地や山陰地方にはナイフが散発的にしか見られず、多数の移住者はなかったようです。
一方、北陸から東北にかけてはそのナイフが多数出土する遺跡が見られ、多くの人々が移住してきた様子が伺えます。
このような、異文化の移動でその先の文化も影響を受け、各地域で多様な文化が成立していきました。
縄文時代の地域多様性にも多くの事例が記されていますが、その辺は省略します。
その後、稲作を伝えた大陸からの人々が九州から各地に広がっていきます。
これを「弥生人」と呼び、以前からの「縄文人」を追っ払ってしまったかのような印象がありますが、実際はそうではなくかなりの場所で両者は混在しており、争いがあったという形跡もその時代にはありませんでした。
しかし、近畿を越え東海地方に入ろうとした時には大きな衝突が起こりました。
濃尾平野では渡来人由来と考えられる遠賀川式土器と縄文式土器の後継である条痕文土器の出土する遺跡がはっきりと分かれており、さらにその時代の遺跡から殺害された証拠の残る縄文人の骨が出てきています。
西日本では平和的に共存していた縄文人と弥生人がこの地域から先には簡単には入れなかったということでしょう。
古墳時代に入り、近畿地方に発生した前方後円墳が全国に広まっていきます。
これは、大和の中央政府の影響が及んだところで作り始めるという時代の差が存在するのですが、西日本での広がりと東日本とは違いがあります。
国造という、大和朝廷の地方官として、東日本ではかつての縄文時代から続く地域の有力者が任命され、彼らがその権力のあかしとして古墳を作り出したようです。
西日本では朝廷というものは多くの豪族たちのまとめ役として決められたという経緯の認識があったのに対し、東日本ではあくまでも上からの征服者として振る舞いました。
そのため、地域の統治もそれまでの実力者をそのまま認知していったようです。
その後も坂東武者と言われる優れた軍事力を持つ集団が残り続け、それが鎌倉幕府の成立につながりました。
言葉の違いも万葉集の昔から強く意識されており、西日本社会との違いというものが明らかだったのでしょう。
今になっても東西の違いというものは大きいままになっています。