爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本列島の誕生」平朝彦著

日本列島はどのようにしてできてきたのか。

そこには地質学を研究してきた人たちの成果が集まってようやく分かるようになってきたと言えます。

この本は1946年生まれで1970年頃から地質学者としての活躍を始めた著者が自分の研究の履歴を通して、日本の地質学の発展、そこから見える日本列島の誕生というものを描いていくというものです。

 

現在はもうプレートテクトニクス学説を疑う人はほとんど居ないはずですが、著者が研究を始めた1970年当時にはまだそれは定説とはなっていませんでした。

それが多くの地質学者が色々な方向からの研究を重ねてようやく証拠を揃えて学説の確立に向かうこととなりました。

日本では海底の化石の調査、各地で見られる複雑な地質構造の解明といった方向からの研究が進められ、著者が特に取り組んだ「四万十帯」と呼ばれる地層の研究などから徐々にプレートの運動というものにつながっていくことになります。

 

プレートが海中を移動している間にはその上部に堆積物を積んでいきます。

それがプレートとプレートがぶつかり合い地中深く沈み込む時にはその堆積物を一緒に地中に引き込むことはなく、堆積物だけは地上に押し上げる動きを見せます。

これは付加体というのですが、実は日本列島の多くはこの付加体からできているということです。

私も伊豆箱根などの地形は付加体だという話は聞いたことがありましたが、大きく、古くから見れば他の場所も付加体だらけということになるようです。

 

日本列島の成因ということを考えると言っても、当然ながら地球全体のことを見ていかなければなりません。

特にアジア地域の動きというものはもちろん日本列島とも深く関わっています。

中国でも山西地溝帯という地域では大陸の地殻が異常に薄く、また火成活動が激しいようで、これをニューヨーク州立大学の都城さんは「ホットリージョン」と名付けました。

ここがマントルの上昇地域に当たるということを裏付けるものです。

さらにアジアへのインドの衝突の影響は強いものです。

インドが衝突しだしたのが4000万年前からですが、それによりアジア全体が変形しています。

これがアジアのこの地域でのアフリカの東部地溝帯とも比較できるような分裂活動の原因となっています。

中国は大陸と言っているのになぜか巨大地震が多いと思っていましたが、こういった理由があったということでしょう。

 

激動の地質学?を牽引してきたともいえる研究者の研究人生を見ることで、地質学自体の発展と進歩を見ることができるという、非常に興味深い本でした。

 

 

もう末期症状?石油は自分たちで取りに行けというトランプ発言

こうなったのは誰の行動のせいかということも忘れたのか、ホルムズ海峡を通れずに石油が不足してきた世界に対し、「自分で取りに行け」という無茶苦茶なトランプ発言です。

www.nikkei.com

アメリカの関わる歴史の事実すら何も考えない発言が多すぎるのは、無知からかと思ってもいましたが、つい一か月前のイラン攻撃開始のことすら覚えていないのであればもう極度の認知症で末期的症状なのでしょう。

 

バイデンの認知症がひどいなどと攻撃していたトランプですが、もはやそれをはるかに上回るものとなっているようです。

 

こんなトランプでも必死で持ち上げなければならない日本と違い、他の諸国はもうアメリカには付いていけないと考えるようになるでしょう。

自転車違反青切符摘発可能に、4月1日施行

4月1日より自転車の交通違反を青切符で処理するようになります。

寸前になってテレビや新聞で色々と報道されていますが、本来ならばその法令が決まる前、少なくとも決まった直後には問題視しなければならないのですが、いざ施行となって騒ぎ出すとはいつものことです。

news.yahoo.co.jp

自転車の交通事故が減らない、事故には自転車側の法令違反が絡む例が多いといった事例が頻繁に紹介され、自動車側のドライブレコーダーで自転車のひどい運転で事故寸前という画像も繰り返し流されています。

 

特に一般から問題視されているのが歩道通行で、取り締まられても車道は怖くて走れないといったことも挙げられてはいます。

それに対しては「すぐに取り締まりとはならない」「悪質な例や警官の指示に従わない場合だけ」などとも言われていますが。

 

こんなもの「何が悪質か」の判断も警察にゆだねられている以上、過剰取り締まりの危険性があるのはもちろんです。

「挙動不審」な人物を取り締まる方策として自転車の運転が使われることなどいくらでもありそうです。

 

「車道を通るのは怖い」のはなぜか、それを放っておいて自転車の歩道通行だけを問題視しても仕方ありません。

結局、自転車通行路の確保すらほとんど進まない道路状況がこういった事態をもたらしています。

道路の一方に必ずガードレールで守られた自転車通行帯をもうければ、無理に歩道や車道を通る必要はありません。

そのために車道が狭くなり自動車の通行がしにくくなることを避けているのでしょうが、なぜそこまで自動車通行だけを保護しなければならないのでしょう。

 

なお、自転車の無謀な走行、法令無視の運転の実例映像は頻繁に流されており、それは確かに危険な行為なのですが、それが何の危険なのかを考えた場合、あくまでも「自転車を運転している自分自身が危険」であるのがほとんどです。

この点、自動車の暴走のように周囲を危険にさらすというものとは全く異なります。

自転車が信号無視して交差点を横切るような事例も見られますが、それでぶつかっても死傷するのは自転車運転の自分自身、自動車側はせいぜい少し自動車に傷が残る程度でしょう。

いっそのこと、ドレレコなどで自動車側の責任が少ないことが証明できる場合はそちら側は完全に免責にするとでも規定すれば。

そうなれば自動車運転者は安心して運転できます。

現状規定ではいくら自転車側に相当な違法行為があっても事故となり自転車運転者に被害があれば自動車側に大きな責任が問われます。

だからこそ自動車側の急ブレーキ回避などが必要となるのですが、そうでなければ話は別でしょう。

 

(上記に「周囲に危険をさらすことはない」と書きましたが、これは歩道での自転車暴走は含みません。田舎に住んでいると忘れがちですが、都会での自転車歩道暴走のひどさは問題なのは間違いありません)

「内田樹の研究室」より「憲法の危機」

高市訪米での日米首脳会談後、高市は日本の法律を米側に説明したと述べたにも関わらず、アメリカの国連大使が「日本は艦船派遣を約束した」と話すなど相違点が見られました。

実はこれは「相違点」などではなく同じものから生じたのだろうというのが内田樹さんの解釈でした。

blog.tatsuru.com内田さんによれば「憲法の規定で派兵はできない」ということは「憲法改正をする必要がある」ということだと言って米側も了承したのだろうということです。

そしてそのためにはアメリカから圧力を掛けてくれという要望も出したのではないかと。

 

それを日本政府は曖昧に発表し、アメリカ政府はあからさまに口にしただけのこと。

 

これでアメリカの後ろ盾も得た政府は改憲に向けて進みだすという内田さんの観測です。

さてどうなるか。

「流行歌で振り返る昭和100年」合田道人著

昨年はちょうど昭和元年から数えて100年に当たりました。

流行歌というものが出てきたのもちょうど昭和の初めころからだということです。

そこで、毎年の流行歌とその年の出来事を並べてみようという趣向の本です。

著者の合田さんは、1979年にシンガーソングライターとしてデビュー、その後も作詞作曲やコンサート司会など、歌に関わる仕事を続けてきたということです。

 

ただし、1年を見開きの2ページに詰め込むということで、内容はどうしても薄くならざるを得なかったようです。

社会の動き、出来事などを書いていると肝心の歌に関する記述をするスペースも無くなるといったように見えます。

 

昭和100年を振り返ると言っても、昭和元年から記述を始めるというのではなく、昭和54年から現在までを最初に置き、その後に昭和元年から昭和53年までという構成になっています。

これはちょうど著者がレコードデビューをしたという年だからということでもあるのでしょうが、やはり昭和初めから書き出すというのはありきたりという感があったからでしょう。

 

時代も後半の部分はほとんど知っていることですが、昭和初期のことはあまり知らないこともありました。

 

レコード製造は初期には日本に工場がなかったため、英グラモフォン、米ビクター、コロンビアの各社の技師が来日し音を吹き込んで本国に持ち帰りそこで盤を製作、それを日本に送って販売ということをしていたので、その価格も非常に高いものでした。

それが昭和2年にようやく日本ビクターが国内にレコード製造工場を建設、ようやく国産が始まりました。

レコード制作の最初は藤原義江の「出船の港」だったのですが、この録音は藤原がアメリカに渡ってあちらのスタジオでやったものでした。

録音まで日本で行った本当の第一号は佐藤千夜子の「波浮の港」です。

ただしこれがヒットするとその歌詞の内容についてクレームが勃発しました。

「波浮の港にゃ夕焼け小焼け」と歌詞にあるものの、波浮港は東向きで夕焼けは見えない。

「鵜の鳥」も歌詞には出てくるが現地には棲息していない。

実は作詞の野口雨情は現地には一度も行ったことが無く、「自分の郷里の茨城の平潟というところをモデルにして書いた」からだそうです。

 

流行歌歌手といっても最初の頃は民謡歌手や芸者を除けば皆音楽学校出がほとんどでした。

それが昭和9年「赤城の子守歌」「国境の町」をヒットさせた東海林太郎で変わります。

東海林は南満州鉄道で働いていたのですが34歳で歌手デビューしました。

 

今はすっかり様子が変わりましたが、紅白歌合戦といえばその出場経験自体が歌手の格にも関わるほどの権威がありました。

しかし戦後始まった最初の頃はさほどでもなく、かえって正月公演を主役で打てるほどの大スターは紅白などには出ないという状態だったそうです。

田畑義夫、岡晴夫、小畑実といった人気歌手や美空ひばりも紅白初出場というのはかなり遅れてからだったそうです。

 

流行したその年にあった事というのが記憶にはっきりと残っているというのはちょっと前までのことだったのかもしれません。

最近はすっかりそれが薄れたように感じるのは私が年を取ったからだけではないでしょう。

 

 

対話型AIはおべっかを使う?

ChatGPIなどの対話型AIは「おべっかを使う」傾向があるということをアメリカの研究チームが明らかにしたそうです。

news.yahoo.co.jp

人間なら否定的な答えをする質問、たとえば「ゴミ箱のない公園にゴミを捨てた私は最低か」といったものにもAIは肯定的な回答をする場合が多いということです。

その結果、それを使った人間は自分の行動がどんなものでもそれでよかったと思い込むことがあるとか。

そのため、AIの利用者は自己の責任感や人間関係修復の必要性を軽く考えるようになってしまうので、悪影響が出ると結論づけています。

 

道理で私もChatGPIに何か質問をすると「とても鋭い質問です」とかおだてられるように感じていましたので、その感覚は間違いなかったようです。

 

おそらくそういうような回答をすることで使いたくなるように仕向けるようにできているということでしょう。

 

これであちら側の手法も明らかになれば、覚えておいて気を引き締めればよいだけのことです。

 

「〈食べ方〉の文化史」治部千波著

今ではかなり変わってしまったとはいえ、まだ「テーブルマナー」というものは大きな影響を持っているようです。

その源流はヨーロッパ近世の宮廷での「食べ方」に発しています。

もちろん、ヨーロッパでもきちんとしたテーブルマナーというものが成立したのがごく最近と言ってよいほどの歴史しかありません。

その経緯をまとめたという本です。

 

ヨーロッパ文化の源ともいえる古代ローマですが、そこでは人々が集まっての宴ではソファに寝そべって食べていました。

スプーンというものはあったようですが、それでもほとんどの物は手でつまんで食べていました。

 

中世に入ると食事の作法というものも変わっていきますが、ヨーロッパ諸国では料理というものもさほど発達せず、ただ肉を焼いたり煮たりと言った程度で、それは宮廷での宴席でも同様でした。

それでも宮廷に出入りして出世をはかろうという人々にとっては、食事の席で不作法をしでかして失敗するなどと言うことはできるだけ避けたかったようで、すでに13世紀のイタリアで「食卓での50の作法」という本が出版されていました。

ボンヴァチーノ・ダ・リヴァという著者名だけが伝わっていますが、その内容は貴族の宴席に招かれることもあった裕福な市民が不作法で失敗しない方法をまとめたというものです。

 

ヨーロッパでフォークを使いだしたのが早かったのは14世紀のイタリアと言われていますが、それでも16世紀に入っても手で食べたりナイフを突き刺して食べたりということが普通に行われていました。

フランスではさらにそれは遅れ、イタリアからフランス王に嫁入りしたカトリーヌ・ド・メディシスの息子、アンリ三世がサラダをフォークで食べたということを周囲は揶揄していたそうです。

 

その後、フランスは国力が増大しヨーロッパを主導するような勢いとなりましたが、その宮廷での宴席というものの意味も大きくなりました。

国王と共に食事ができるということは人々にとって大きな名誉となりましたが、その分だけ食事の作法というものも厳しくなっていきます。

料理を給仕する方法というものも洗練され、ということはがんじがらめになっていくとも言えます。

ただし、その当時のフランス式の給仕方法というものはフランス式サービスと呼ばれ、食事の最初に料理を一度に並べるというもので、見た目は豪華ですが温かい料理はどんどんと冷めてしまうというものでした。

その後、フランスが社会変動でそういった礼儀の中心はロシアに移ってしまいます。

そこで生まれたのがロシア式サービス、すなわち皿に盛った料理を一人一人に出していくという、現在見られるような給仕方法でした。

 

フランス革命から始まるフランス社会の変化に伴い、王宮や貴族の屋敷に雇われていた料理人たちは失業しますが、ロシアやドイツの宮廷に招かれる者もあるものの中には町でレストランを開く者も出てきます。

それ以前にはパリでも町中で食事ができる場所というのは無かったのですが、高級料理店が一気に増えていき、そこが料理文化の中心となっていきます。

ただし、豪華な料理を出すためその価格も非常に高く、裕福なブルジョワでなければ食べることもできなかったものでした。

 

最後にトルコや日本における西洋の食事作法の広がりについても記されています。

日本では朝廷といえど西洋式の食事を行う経験はまったくなく、海外から賓客が訪れる場合も増えてくるとその作法をどうするかということも大問題になったようです。

そのため、すでに開店して営業していた精養軒に官吏を派遣し食事の作法と料理作成を学んだのだとか。

しかし海外賓客との宴席に天皇の出席というのはなかなか実現せず、相当遅れて始まったようです。

 

西洋式のテーブルマナー、意外と歴史は浅いものだと分かりました。

そんなにこだわるものじゃないのかも。