爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「校歌斉唱! 日本人が育んだ学校文化の謎」渡辺裕著

校歌というものは日本の学校ではおそらく無いところはないでしょう。

小学校から大学まで、古いものから新しいものまでさまざまな校歌が作られ歌われています。

古いものでは100年以上の歴史があるものもあります。

それを歌い続けた伝統というものがあります。

そういった校歌について、その歴史などを調べてみようとしたのですが、他にそういったことをまとめられた本というものがほとんど見られないようです。

というわけで、調査にはかなり苦心されたそうです。

 

戦前の校歌というものは、国家主義を押し付けるようなもので、学校側が作って押し付けたというようなイメージがあるかもしれませんが、それは昭和初期以来のわずかな時だけで、それ以前はそういったものではなかったようです。

 

校歌というものはほぼ日本特有のものと言えるようです。

しかし欧米にも「学生歌」というものは多くの学校にあります。

ただしそれは、社会的にも広く存在する「コミュニティー・ソング」というものの一種として存在しているものです。

フランス国歌ラ・マルセイエーズももともとは革命軍の中で歌われたこういった性質のものが広まって国歌にまでなってしまいました。

 

日本でも明治期には学校に校歌というものが必要という概念がなく、学生が勝手に歌っていた歌があったという発祥だったようです。

昭和に入り新たに国歌主義、立身報国といった校歌を作ることになると、そういった「旧校歌」を棚上げにして新校歌として作っていきました。

 

もともとの旧校歌と言われる歌は、旋律は良く知られた歌をそのまま使い、歌詞だけを作ってあてはめる「替え歌校歌」というものが多かったようです。

これは校歌に限ったわけではなく、他の多くの歌が節は借りて歌詞だけを作って歌われていました。

現在では著作権があり難しいのですが、そんなことなど全く意識されない時代には多用されたものです。

 

「校歌の戦後処理」というのも大きな問題でした。

昭和初期からの新校歌は、国歌主義真っただ中で作られたものであり、天皇礼賛、報国などの歌詞がちりばめられており、とてもそのままでは戦後に歌うわけにはいかないものでした。

そこでそういった部分だけ歌わないとか、歌詞を変えるといった方策が取られました。

 

それよりも大きな問題が男女共学化された学校での校歌の選択です。

旧制中学が高校化し、そこに女子も受け入れたという学校もありますが、中には旧制中学と旧制高等女学校が合併して新制高校とした学校もありました。

その場合どちらかの校歌にするのか、あるいは新たに校歌を制定するのかといった問題がありました。

どうやら多くの場合旧制中学の方が残るということが多かったようです。

しかしそもそも旧制中学の校歌と高等女学校の校歌というものはかなり性格が異なりました。

旧制中学の校歌は男子学生が蛮声でがなるようなものでしたが、女学校の校歌は芸術的なもので、二声部に分かれた合唱曲のようなものが多かったそうです。

戦前の女学校というものの性格が分かるようなものになっていました。

 

他にも校歌をめぐる文化として、対校戦、高校野球、応援団、吹奏楽部といった問題にも触れています。

私の卒業した高校も、校歌に関しては触れられていなかったものの、かつて行われていた対校戦が記述されていました。懐かしい思い出です。

 

なお、本書では高校(新制)を中心として書かれていますが、小中学、大学にもそれぞれ校歌の問題はあるかと思います。

 

 

ご祝儀支持率?まったく寛大な国民だことで。

石破内閣支持率が50%を越えているそうです。

news.yahoo.co.jpまあ首相交代時の支持率はぐんと上がるのが常ですのでそれにしては高くないというべきかもしれません。

 

しかし首相就任した途端以前の発言とは変わり自民党内主流派の言うことと同じになったように見えます。

これはどうやら相当ながっかり内閣になりそうです。

 

それにしても就任早々の衆院解散総選挙、まあ思惑通り大敗を免れるばかりか勝利と言えるものになるのかもしれません。

「太公望 下」宮城谷昌光著

周の軍師として商(殷)を倒したと言われる太公望呂尚を描いた作品も完結です。

この辺になると他の書に現れる事柄が出てきて少し安心できます。

 

なお、この編の最後に書かれているあとがきによれば、宮城谷さんは太公望にまつわる小説を処女作の「王家の風日」および三作目の「甘棠の人」の二編を先に書いており、いつかは太公望を主人公としたものを書きたいと思っていたそうです。

 

沙丘に諸侯を招き、酒池肉林で有名となった長夜の宴の最中、紂王は九公、鬼公、卾公の三人を突然捕らえ処刑します。

さらに周公(文王)も捕らえますが、これはすぐには処刑せずに獄に下します。

さらに周公の長子伯邑考も捕らえ監禁します。

それに歯向かい傷を負った周の重臣閎夭を呂望の配下が救い手当をします。

その時はまだ周を助けるとは決めていなかった羌望もここから周と深く関わるようになります。

周公が監禁されている羑里の獄にも呂望の配下の手先が居り、それを通じて獄中で死なぬように配慮していたのでした。

やがて、長子伯邑考は殺され、それを煮た汁を周公に飲ませるということも行われます。

 

呂望は周を助けて商を倒すことと決め、周の重臣たちや伯邑考亡き後の後継者太子発とも語り合い、その構想を理解させることになります。

それが、周公を平和裏に釈放させる方策を取ることでした。

周公を紂王にそしったのは崇公であり、彼が周公に謀反の動き在りということを紂王に告げたのを信じたのがこの事件の始まりでした。

そしてそれが誣告であり真実ではないということを紂王に信じさせることとしたのです。

そのためには、西方の諸侯の証言、そして紂王の愛妾の妲己の父親、蘇公へ取り入ることでした。

妲己からも吹き込まれた紂王はその言を信じ、周公を釈放させるのでした。

 

周公はしかし商に対する復讐心を深く持って、手始めに誣告した崇公を亡ぼし、さらに商の友好国を次々と滅ぼしていきます。

しかし最後の戦いを前にして周公は亡くなってしまいますが、太子発はその位牌を戦車に積み商との闘いに向かうというのは他書でも有名な記述です。

 

商との戦いの前に、昔からの大国であった召の国を味方に引き入れるために呂望が活躍したという話も重要な部分です。

召はかつては商王から西方の取り締まりを任されていたという大国で、その自尊心も強いものであり、周などに従うことはできないと強硬だったのですが、羌望の鮮やかな説得でその後嗣召奭の信頼を勝ち取りました。

これが周王朝成立後、呂望と共に王朝を支える召公が周に加わることになるはじめでした。

 

商を倒す牧野の戦いなどはさほど詳しくは書かれていません。

かえってその後の周王朝の混乱ぶりの方が詳しいようです。

武王(発)の弟たちの反乱も頻発しました。

そして武王自身が早死にしてしまうのですが、そこで武王の幼い息子を支え、自ら甲冑を着て反乱討伐に向かった武王の妃、王姜の話は史書でも有名ですが、この王姜はこの小説の中ではあの呂族全滅の中から逃げた少年たちの中のただ一人の女子、継であったとしています。

 

数々の物語の中で語られることの多い太公望ですが、そこに多くの想像力を使って詳しく描写を加えた太公望像を作り上げました。

宮城谷さんの初期の作品の中でも大作と言えるでしょう。

 

 

風力発電で横風低減?そんなことができるのか。

北海道の空港では横風が強すぎて航空便が欠航ということもあるようですが、それを軽減するために滑走路わきに風力発電装置を設置するというアイデアがあるそうです。

www.hokkaido-np.co.jp

まあおそらくそんなもので風を弱めるという効果は期待できないでしょうが、そこには結構意外な真実が隠れているのかもしれません。

 

風力発電の基になるエネルギーは風の力ですが、それを電力に変えるということはごくわずかであっても風力を減少させることになります。

つまり大量の風車を回して電力を得ればその分は風力が弱まることになります。

もちろん大気の移動という力は全体としては莫大なものであり、少々の風力発電程度では影響はないのでしょうが、まったく無いとは言えない。

 

それならどの程度の風力発電を行えば風が弱まるといった影響が出るのか。

もしかして、「風力発電ができたのでそよ風も無くなった」なんていうことになるのかも。

「科学目線」元村有希子著

元村さんは毎日新聞の科学記者として有名な方です。

けっこう長い間毎日新聞を購読していたので、その署名記事も読んだ覚えがありました。

 

その元村さんが2019年から2023年まで、いろいろなところに書いた文章をまとめたものです。

それほど長い文章はなく、せいぜい2ページほどのものばかりでしょうか。

 

科学に関するものが多いのですが、時事関係も結構多く、この時期ですからコロナ、東京オリンピックウクライナ戦争といった話題に関する記事も目につきました。

 

大学では教育学部を卒業され、取得した免許は「国語」ということですからもともとは自然科学専門ではなかったようですが、毎日新聞に入社して配属されたのが科学環境部、それ以来そこ一筋ということです。

 

ノーベル賞の授賞者発表というのは、科学記者にとっては年に一度のお祭りのようなものだそうです。

ただし、「問題は時差の関係で発表が日本時間の夕方となる」ことだそうで、翌日の朝刊に受賞者の業績などを分かりやすく解説する記事を書くというのは大変なことのようです。

特に、直木賞アカデミー賞と違って誰が最終選考に残っているかも分からず、一応評判の高い人たち数十人分の予定稿を作って待ち構えるのですが、時にはノーマークの人が受賞するということが起きます。

特に2002年の化学賞受賞の田中耕一さんがそれでした。

Koichi Tanaka」という名前がノーベル賞のウェブサイトに出てもそれが誰かも皆知りません。

そのうちにタナカ氏の所属が島津製作所であるという情報が入り、とりあえず会社に電話を入れたそうです。

島津製作所の方でも田中がノーベル賞などと言うことは予測もしておらず、広報課も頓珍漢な答えをしていたそうです。

その日は特にその会社の「ノー残業デー」、もう皆帰ってしまいその職場に居たのが部長ただ一人で、それも帰る間際だったとか。

 

「家事ロボットは可能か」という文章も面白いものでした。

家事労働を減らすために家電が発達してきましたが、まだまだ多くの家事をしなければなりません。

ロボットが洗濯物を畳めるかというと、これが相当難しいことのようです。

シャツとパンツを見分けることも難しく、さらにそれを畳むなどと言うことはほとんど無理。

これに挑んだベンチャー企業があったそうですが、まったく不可能で経営破綻したそうです。

”名もなき家事”というのが多すぎ、家事労働は複雑なわりに安く見積もられるため、家事ロボットの開発はまだ当分先のようです。

 

コロナ・ウクライナ原発といった話題は、やはり簡単に書くわけにもいかないことのようで、ちょっと空振り気味に見えました。

 

 

熊本県内のバス、交通系ICカード使用廃止を「一か月前倒し」、クレカ使用は来年3月から

熊本県内のバス各社は、交通系ICカードの使用は機器更新費用が高すぎるために廃止するという決定をしていました。

その廃止時期を「一か月前倒し」してしまうということです。

www3.nhk.or.jpしかも代わりとなるクレカ使用は来年3月から。

その間は現金か超地域限定ICカードくまモンICカード」のみの決済しかできません。

 

確かにバス会社の経営にとっては非常に厳しい問題なのでしょうが、利用者の都合などは一切考えられていないことは明らかでしょう。

 

まあ、めったに使うこともないバスですが、これでますます使いづらくなりました。

飛行機の乗り方、空港アクセスの思い出 (熊本空港編)

思い出書き止めシリーズ、今回は「飛行機の乗り方」です。

 

大学卒業までは飛行機に乗る機会も全くなかったのですが、就職し熊本に赴任してからは故郷の実家に帰るにも飛行機利用ということになりました。

 

現在は八代から熊本空港まで高速経由のバスがあり、新八代駅前から乗ると50分ほどで空港まで到着という便利なものになっています。

しかしかつてはそう簡単なものではありませんでした。

 

就職し熊本に来たのが1978年(昭和53年)、その年の夏休みには第1回の帰省旅行ということになりました。

飛行機の乗り方も全く知らなかったため、職場の先輩で東京出身のAさんと一緒に帰ることにしました。

しかしAさんも熊本空港から乗るのは好きではなかったようで、福岡まで国鉄特急で出て福岡空港から東京行の飛行機に乗りました。

そういった福岡便利用ということをその後も何回か続けました。

 

それでもやはり福岡まで特急に乗っていくのも金がかかるということで、熊本空港利用に変えることにしました。

当時は熊本空港へはバスに頼るのでなければタクシーしかないという状況で(今でも一緒ですが)した。

その頃は現在の通常ルートの第2空港線という道路がまだなく、第1空港線といって熊本中心部から東バイパスで北上し、熊本インターのすぐそばから東に入る道を通るもので、今ほど道路の渋滞は無かったのですが、それでも距離がかなり長く時間も相当かかりました。

本当に、金さえ余裕があれば特急で福岡に行く方がよほど早いと感じました。

 

その後、第2空港線が開通し距離も近くなり時間も早くなりました。

調べてみると1987年開通ということですので、それ以降はバスもそこを通るようになったのでしょう。

熊本駅から乗ると中心街を経由して電車通りを行き、県庁前の通りを経て自衛隊前を通り、そこから少し右にずれると後はほぼ直線で空港まで到達します。

途中で高速の空港インターを経由し、そのすぐ先がグランメッセ熊本ですが、それを過ぎると一面の畑と山林になってしまいます。

しばらくの間は電車で熊本駅まで行き、そこから空港バスに乗り換えるという行き方が普通となりました。

 

それが大きく変わったのが2004年の九州新幹線新八代鹿児島中央間の開業です。

これで水俣や鹿児島県北部の空港利用客が増加すると見込んで、八代市のバス会社神園交通が八代から高速道路経由で熊本空港まで走るバス路線を開業しました。

この時はまだ単身赴任で神奈川に行っていた頃でたびたび帰省したのですが、その折に利用して余りの便利さに驚きました。

それまでの熊本駅行きの空港バスが駅まで着くより速く新八代駅まで到着するのですから、電車利用の時間が丸々不要となりました。

ただし、大型バスを投入するほどではないとの判断で、中型バスが運行しており、多客期にはバスに乗り切れなくなることもあり、その時のために神園交通はタクシーを待機させてそれに乗せたということもありました。

新幹線の博多までの全線開通からは熊本まで行く人も増えたのか、若干少なくなったようにも思います。

しかしこのところ話題になることも多い熊本市内の交通渋滞のひどさから、熊本駅からのバス路線の運行が厳しくなり遅れも目立つとか。

この分では再び新八代発の空港行きというのが有利になるかもしれません。

 

いろいろと変化がありましたが、今のところは八代からのバス利用が最速でしょうか。

ただし料金はかなり上がりました。