爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

八代市松濱軒の花しょうぶ

八代市の八代城跡のすぐそばにある松濱軒の花しょうぶが満開だということで見に行ってきました。

松濱軒は肥後細川藩の支城として建てられた八代城を預かった家老松井家がお茶屋として建てたもので、最初に建てられたのは元禄元年(1688年)ということです。

その当時はここが海岸すぐそばだったということで、通称は「浜のお茶屋」だったということですが、今は干拓が進んだために海岸線はここから5㎞以上も西側になっています。

 

菖蒲やかきつばた(どれがどれかも分かりません)が植えられたのはいつからかということは分かりませんが、中央部の池に多くの花が咲いています。

もうすぐ暑い夏が来るぞという合図のようにも見えます。

 

経団連十倉会長インタビュー「脱炭素化を成長の切り札に」だそうです。

経団連の十倉会長がNHKのインタビューに答えたものが朝の番組で流されていました。(ネタの宝庫でいつも参考にさせてもらっています)

 

「脱炭素化を成長の切り札に」するということで、世界に先駆けて技術開発などを行い、総額400兆円の投資をするとか。

政府にも年2兆円の支出を求め国債発行で賄えという話です。

 

放送自体の記録はまだありませんが、同様の内容を東洋経済オンラインで語ったものがありました。

toyokeizai.net

「脱炭素化」というものがどういうものか、その正体が明らかになるまではこういった妄言を信じる人がほとんどなのでしょうが、成長とはまったく逆方向に行かなければ本当の「実質の脱炭素化」は成立しないということが分かるのはすべてが破綻した後なのでしょう。

 

この会長は住友化学の会長でもあるということで、重化学工業先導の経済というものを疑う気持ちなどは全く持てないのでしょうが、核心はそこにあります。

 

まあ何度も書いたことですのでここでは止めておきますが、小手先の技術などで解決するような脱炭素化などと言うものは無いということです。

 

しかしそれにしてもそのためだけに年間2兆円の国債を新たに発行しろとは、怖ろしいことを。

どうも国債発行というものに対する警戒心もすっかり無くなってしまい、いくらでも出してしまえということでしょうか。

国債はいつかは返さなければならないものですが、成長さえすれば返せるということでしょう。

しかし、この投資は「どぶに捨てる」ようなものです。

まあ「どぶ」というのは「機械メーカー」「開発会社」「建設会社」などの業界のことなのですが。

彼らのふところに直行させ、一時的に豊かにするだけでありそのツケは重く大きいものとなるでしょう。

 

結局「脱炭素化は成長の切り札」ではなく「脱炭素化は亡国の切り札」となるでしょう。

 

「発酵文化人類学」小倉ヒラク著

発酵文化人類学とは著者の造語ですが、人間の生活には発酵というものが深く関わっており、民族によりそして地域により様々な形で発酵というものを利用しているのですから、文化人類学的に発酵を考えていくというのも面白いアプローチかもしれません。

 

著者の小倉さんは「発酵デザイナー」と自称しており、様々な発酵についてそれを広める活動をしています。

元々大学では文化人類学を専攻し僻地の現地調査などをしていたのですが、どこでも独自の発酵食品があるというところから発酵に目覚めていったのでしょうか。

 

その後東京農業大学で研究生として発酵学を学び、さらにその活動に進んで行ったそうです。

 

本書は発酵と人間のかかわりについて、特に発酵食品というものを詳しく説明していきます。

ただし、現代の若者言葉を駆使し、さらに若者向けのスポーツやアニメ、芸能関係のネタを比喩に使うという文章で、そういったものに疎い老人にとっては少々分かりにくいものでした。

まあもともとこちらは想定読者には入っていないのでしょう。

 

また説明の中にも文化人類学的用語がちりばめられ、これもちょっと分かりにくさを感じさせました。

 

発酵文化の多様性という章では、木曽のすんき漬け、高知県碁石茶、伊豆諸島新島のくさやが取り上げられ、通常の類似食品とはかなり変わった発酵の在り方についても語られています。

特にすんき漬けは「無塩乳酸発酵」という他には例を見ない特殊なものなのですが、これも使用原料とその処理、作る季節などを調節することによりびったりの発酵条件を作り出すという実情について解説されていました。

 

なお、発酵について様々な記述が続きますが、ほとんど間違いがないというのはさすがです。

ただし、一か所だけ誤植と校正モレがあったのは残念なところでした。

59ページ12行目のカッコ内で、「アルコール度数20℃を超えるあたりで酵母が死ぬ」とありましたが、ここは当然「アルコール度数20度」でなければいけません。

アルコール度数は容量パーセントで表し、表記は「度」または「%」ですので、温度単位の「℃」は使えません。校正の見逃しでしょう。

 

お酒の話で、「山梨では寿司屋で寿司を肴に甲州ワインを飲む」ということは知りませんでした。

しかし、甲州ワインという昔からの伝統的な作り方のワインの性格を上手く説明する挿話だと思います。

日本酒のタイプの移り変わりでも「おじさんの酒」「評論家の酒」「若い女の人の酒」と表わしているのは非常に分かりやすい説明でした。

そのタイプの違いというものが、優劣ではないということもその通りで、いくらけなされてもおじさんたちはアルコール添加の清酒の熱燗が一番と言うのも間違いないことです。

 

発酵と言うものを初めて知る人には面白くて分かりやすい本かもしれません。

冒頭に「本書に期待して良いこと、悪いこと」が書かれています。

「期待していいこと」

・発酵文化の面白さがわかる。

・同時に文化人類学における主要トピックスがなんとなくわかる。

・人類の起源や認知構造についてそれとなく見識が深まる。

「期待しちゃダメなこと」

・発酵について体系的に学ぶ。

文化人類学について体系的に学ぶ。

・発酵食品の健康機能や美容効果がわかる。

ということだそうです。

 

 

夢の話「蒸気機関車の写真を撮りに行く」

少年の頃から鉄道写真に目覚め撮影旅行というものもしてきましたが、今回の夢はどうやら現在のことのようです。

 

蒸気機関車の特別列車が走るということで撮影に行きます。

その場所は沿線からというわけではなく、列車の到着駅で撮影するつもりのようです。

ホームが何本もある大きな駅ですが、至る所にカメラを抱えた人々が溢れています。

その中で撮影ポイントを選ぶのに頭を悩ませます。

到着ホームでは人の頭しか写らないでしょうから、少し離れたところから狙おうと思うのですが、それでも人が多く場所の確保は大変のようです。

 

とはいえ、そうこうしている間に列車が入ってきます。

機関車はテンダー無しのタンク機ですので、こちらで何度か写真を撮ったSL人吉の8620型ではなく、C11のようです。

ボイラー上部に砂箱と蒸気貯めが別々になっている2つコブが特徴的です。

 

到着の光景を写真に収めるとその後の出発写真を撮るために移動します。

停車中にやはり機関車の近影を撮影しようと人混みを分けて近づきます。

 

停車時間はやや長いようで、それではどこで出発光景をとらえるか、駅を離れて少し近くに移動するか。

とはいえ人が多すぎるので今から撮影ポイントを押さえるのは難しそうです。

 

と、ここで夢はいきなりそこから帰宅の電車車中へと移動します。

なにやら知人が多数乗っており、懐かしい光景となってしまいました。

もう既に亡くなっている人もおり、天国への列車でしょうか。

 

JR九州で復活させ走っていたSL人吉号は鹿児島本線から肥薩線に入るということですぐそばの新八代駅を通過するため、何度も写真を撮りに行ったものです。

しかし2年前の豪雨で肥薩線は橋が落ちるなどして壊滅。まだ再建のめども立っていません。

ようやく国からの補助金も出せるようになったようですが、進むかどうか。

球磨川沿いの渓流を走る蒸気機関車をまた見たいものです。

 

脱炭素化などを進めるとどういうことになるのか。

あるところで、太陽光発電を使って電力自給をするシステムについて解説している専門家の記事を見ました。(もう検索不能

 

その概略は、太陽光発電のみで電力需要を満たすには蓄電池だけでは不可能。水電解水素製造装置と水素電池を組み合わせた蓄電システムを備えなければならない。

というものでした。

 

太陽光発電は言うまでもなく晴れた日の日中しか発電することはできません。

その電力だけで24時間の電力使用を賄おうとすれば蓄電装置が不可欠なのですが、蓄電池だけでは不足するということでしょう。

そのため太陽光発電の電力が十分な時に水電気分解で水素を製造しそれを太陽光がない時間帯には水素電池で使って発電するということです。

 

現在も太陽光発電がどんどんと広がっていますが、その電力の平準化はすべて電力会社に丸投げです。

それがあたかも電力会社の責任のようにされていますが、これも限度があることで既にあちこちで破綻しかけています。

 

もしも電力会社からの売電なしに太陽光発電だけでやっていこうとすれば、確かに上記のような設備が必要となってくるでしょう。

 

しかし現状でもこれを実現しようとすれば莫大な設備費がかかってきます。

太陽光発電と蓄電池だけでも相当高価なものですが、それにさらに水電気分解の水素発生装置や水素電池まで備えれば途方もない価格になります。

これは水素関連設備が普及し価格が下がってきたとしてもやはりかなりの高額なものとなるでしょう。

 

これだけの設備費をどうやって負担するのか。

個人などではほとんど金持ちの道楽でしかできないでしょう。

企業の場合、これが「環境問題やってます」のポーズ作りなら宣伝費から出すという手もあるかもしれませんが、普通の企業会計の範囲で言えば製品価格に全部コストとしてかけなければなりません。

そうでなくても価格競争の対策としてコスト削減で四苦八苦している企業がそのような負担が可能かどうか。

 

もしも、競争企業のすべてがこのような電力状況であるなら、まだ同一レベルの競争となるかもしれません。

しかし、世界のどこかで「脱炭素化なんて知りません」というところがあればどうなるか。

そういった国では平気で安価な火力発電の電力で企業運営をしていたらどうなるか。

もう全く競争にはなりません。

 

こういった事例はすでに存在しています。

太陽光発電のパネル製造には大量の電力を必要としていますが、中国はそれを非常にコストの安い石炭火力発電で行なっているために製品価格も安く抑えられ、それで欧米などのライバル企業の製品を駆逐したのだそうです。

 

これを防ぐためには世界全体で「脱炭素化に取り組まない国は村八分」ということにしなければならないのですが、果たしてできるかどうか。

欧米主導で進めようとしてもどうせ中国あたりが反対して潰れるでしょう。

第三世界の大多数も中国の動きに同調するでしょうが、その結果競争力を失うのは欧米と日本だけになり、それらの国の沈没につながりかねません。

 

ヨーロッパ各国は脱炭素化に今後日本円換算で数十兆円以上も注ぎ込むと言っています。

これがもしも何も産み出すことなく、単にその競争力を失わせるだけになるとしたら、温暖化防止どころではないでしょう。

自滅プログラムのスタートです。

 

洋上風力発電は日本をますます貧しくする。常葉大学名誉教授山本隆三さんの解説より

風力発電などは日本ではほとんど成り立たないと思っていますが、それについて専門的な解説が山本隆三さんにより書かれていました。

wedge.ismedia.jp

主張のすべてに納得できるわけではないのですが、その論拠はさすがにはっきりとしています。

 

ロシア産の化石燃料をストップするということでヨーロッパでも風力発電増強と言う動きが強まっていますが、その風力発電装置の大半は中国産だそうです。

つまりロシアを回避しても今度は中国頼りになるということで、先行きの不透明さは変わりないようです。

 

文中に引用されていた、発電設備別の必要な資材の量と言う表(アメリカエネルギー省)は非常に興味深いものでした。

引用させて頂きましたが、風力発電ではコンクリートを大量に必要とするということが分かります。

また鋼鉄も相当量必要とするようです。

山本さんは「資材製造と輸送の二酸化炭素排出量はどれほどだろうか。」と指摘されていますが、やはり立場上「完全否定」はできないのでしょう。

私は完全フリーですからはっきり言いますが「こんなの割に合うわけないじゃん」です。

 

ついでながら、隣の太陽光発電の資材必要量もひどいものです。

銅やシリコン、アルミの所要量が莫大なもので、こんなものがのさばったら地球はつぶれると言わなければならないでしょう。

 

これだけの資材を投入しても、日本の風力発電は発電量が季節により極端に低下するため全く採算が合わないようです。

そりゃそうでしょう。

真夏のうだるような暑さの中、そよとも風が吹かない状態が続くのは誰もが覚えがあるはずです。

 

ただし、その先の山本さんの結論は「何でそうなるの」と思うようなものでした。

自給率の向上とエネルギー価格の抑制を、というのですが、それも無理でしょう。

「エネルギー使用の抑制を」というのが唯一の取るべき道です。

 

子供の名付けと日本語

キラキラネームやら難読名付けやら、徐々におかしなことになっていると思っていたら、戸籍に読み仮名を付けるなどと言う政府方針が出たために一気に情勢が混沌としてしまいました。

 

政府の考えはどうも単に「デジタル化がやりにくい」といったバカな魂胆からのようですが、それがどうしても混乱を増大させるのは明らかです。

 

これの源流には子どもの名付けをする若い人々の感覚の流れがあります。

 

昔は名付けの権限も祖父にあったり、親戚一同の合議などと言うこともあったようですが、現代ではほとんどが子供の両親、それも実態は母親にあるようです。

そして、その名付けに対し「子供の名前は親からの最初で最大の贈り物」などと言う一見美しく聞こえるような言葉が流れ出し、それに乗せられた母親たちの名付け活動が広がっていったようです。

 

そこでよく聞かれた言葉が「世界でただ一つの名前を付けてあげたい」という、当たり前のようにも聞こえますが実際には全く不可能な希望でした。

 

そもそも、人間の名前が「世界で一つだけ」になることはほぼ不可能です。

もしも11ケタの数字が名前ということであればそれも可能ですが、数字の羅列を名前と認識することはコンピュータでなければできないでしょう。

そのため、「自分たちの世代や親の世代には無い名前」をネットや雑誌で探すといったことになり、結局は似たような名前の赤ちゃんがぞろぞろと言うことになっています。

 

名付けの実態というもものは、現代であっても法律的に一定の範囲内に決まっている国(かつてのフランスなど)もあり、宗教的にほぼ限られている国もあり(イスラム教国、キリスト教国など)、そういったところでは非常に少ない候補の中から選ばれています。

比較的自由なのは東アジア各国、日本、韓国、中国などでしょうが、それでも中国・韓国は用いることができる文字が漢字・ハングルと言うものだけですので、それほど突飛な事ができるわけではないでしょう。

 

ところが、日本ではその日本語の特性(漢字と仮名の同時使用および漢字の読み方の自由性)、そして戸籍の運用上の特性(漢字の読み仮名を指定せず曖昧にしている)から大混乱が発生することとなりました。

 

まずは「漢字の読み」という問題から。

漢字には「音読み」と「訓読み」という読み方があり、しかもそれぞれ複数の読み方があるため何通りにも読めるということは多くの人がご存じでしょう。

音読みとは中国から漢字が伝わった時にその読み方として伝えられたものです。

ただし、伝わった時代により中国での読み方にも違いがあり、それをそのまま受け入れたために音読みにも呉音、漢音などという違いができてしまいました。

「行」という字を「コウ」「ギョウ」「アン」などと読み分けるということが知られています。

訓読みはその字が表す事象の日本での意味を示します。「行」でいえば「おこない」「いく」などです。

このような歴史の展開から、一つの文字に対してその読み方が多数存在するということになりました。

さらに状況を複雑にするのが「名乗り読み」という読み方の存在です。

「朝」を「とも」と読む、「光」を「みつ」と読むといった読み方はその理由が判然としません。

しかし古くは平安時代からこういった文字をこの読み方で名前に使っている例があります。

今さら止めることもできませんが、事態をさらに複雑にしています。

 

日本では現在は戸籍というものが国民すべてに作られています。

こういった戸籍制度が確立したのは明治初年ですが、江戸時代にはキリシタン禁止のために始まった菩提寺による管理を流用し寺の作る宗門人別帳が戸籍の代わりになっていました。

明治になり戸籍も国内一律となるのですが、そこでは様々なバラつきが多かったようです。

すべての国民が苗字、個人名を届け出たのですが、漢字の字体も全く統一できておらず、出願者の書く通りに認めたようです。

斎藤という苗字に使われる「斎」という文字には非常に多くの異字体があることは話題になりますが、他にもこういった事例はあるのでしょう。

また「漢字の読み方」までは登録しないこととしたために、名前をどう読んでも自分の勝手ということにもなりました。

この辺の事情の詳しいことは分かりませんが、その漢字をどう書き、どう読むかということまで役所の係員が判断するということは不可能だったからと考えられます。

現在でも漢字に関わる学説には多くの議論があり、とても統一見解などはできるはずもありません。

学校で教える教育用の漢字にはある程度統一されているように見せていますが、これも文科省の都合だけで作られているものであり、正統なものとは言えません。

 

こういった事情があるにも関わらず、今回政府が「戸籍に読み仮名を」ということを言いだし、それを単に法律や行政、戸籍の手続きの専門家というだけの連中が審議をしているということで変なことになるのではと危惧されます。

 

その方法にはいくつかの案があるそうです。

一つは「なんでもあり」

一つは「政府が基準を定める」だそうで。

 

「なんでもあり」だけは止めてほしい。

これまでの千年以上もかけて作られてきた日本の漢字の文化を完全に破壊してしまいます。

これまでも危うい状況だったのですが、それでも戸籍の漢字の読み方というものは自由だということで済ませられました。

しかし戸籍として登録されたということは国家によって認められたとも言えるもので、そのような変な読み方まで国公認と思われては大変なことになります。

 

「政府が基準を定める」などと言っても、誰がどうやって決定するのか。

またお気に入りの学者を呼んできて作らせるのか。

そうしておいて形だけパブコメ募集したり、各地で説明会をしただけでスタート。

やりそうなことは想像できます。

なにしろ、学者と言っても言うことは千差万別。

「海をマリンと読むのもアリ」などと言うのも居るようです。

どんなものになるのか、予測もできません。

 

(ついで)

「海をマリンと読む」のはなぜ困るのか。

「訓読み」は漢字の日本での意味を表わすものだから「マリン」でも良いのではと言われそうです。

確かに「意味」で読み方を決めるのが訓読みですが、さて「漢字の日本での訓読み」を決めるのに外国の意味を考慮するとどうなるのか。

 

どうせ、英語かその原語としてのギリシャラテン語程度しか想定していないのでしょうが、世界各国様々な言語があります。

これらすべての読みを認めるのか。

たとえば「海」であれば次のような言葉があります。(原語は書くのも難しいのでカタカナ表記)

シー(英語)、ダーハァイ(中国語)、バダ(韓国語)、マル(スペイン語)、メール(フランス語)、バフル(アラビア語)、モーリェ(ロシア語)、メーア(ドイツ語)、マレ(ラテン語

さすがに「英語以外は認めない」などとは決められないでしょうが、そうなると「海」と漢字で書いてもそれを何と読むのか、全く判断もできなくなります。

日本の戸籍でそこまで大きな問題を作り出す必要は全く無いと思います。

 

「戸籍に読み仮名を」ということはニュースでも報道されましたが、これにこのような大問題が含まれているということはほとんどの人が考えもしないことでしょう。

しかしもうちょっと良く考えてみてください。

特に若い人、あなたたちの子どもの名付け、そしてこれからの日本語の将来がかかっているのですよ。