爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「サル化する世界」内田樹著

内田樹さんは常日頃「内田樹の研究室」というブログでその鋭い社会観察を見せて頂いていますが、思想家とも言われるその的確な話しぶりから、雑誌や新聞などのメディアに求められて文章を書くことや、講演会などの場で意見発表の場が多くなっています。

それらの中から、2016年ごろから2019年までのものをまとめて単行本としたものです。

 

多くの文章がありますが、その内容からⅠ時間と知性、Ⅱゆらぐ現代社会、Ⅲ”この国の形”考、ⅣAI時代の教育論、Ⅴ人口減少時代の只中で、そして特別対談として堤未果さんとの「人口減少社会を襲う”ハゲタカ”問題」と題したものを掲載しています。

 

各所に鋭い記載があり、目を開かせられるところが満載と言う感じですが、中でも光るものを挙げておきます。

 

朝三暮四という熟語にも残っている、中国春秋時代の宋の国の話です。

朝夕に4粒ずつ栃の実をサルに与えていたのですが、コストカットの必要に迫られて朝に3粒、しかし夕は4粒のままとするとサルに告げるとサルは激怒しました。

そこで、朝に4粒、夕に3粒にすると変更するとサルは大喜びして受け入れました。

このサルたちは未来の自分が抱え込む損失やリスクは他人事だと思っています。

その点では、「当期利益至上主義者」に酷似しています。

「こんなことを続けていたら大変なことになる」と分かっていても、その「未来の図」が自分のことだとは想像もできないのです。

データをごまかしたり、決算を粉飾したり、年金を溶かしたりする連中はこのサル以下だということです。

 

タナぼた式に得た「民主主義」ですが、それを受け取った当時の大人たちは必死でそれを受け入れようとしました。

60年代から70年代にかけて、とにかくその民主主義の絶頂期においてその恩恵をもっとも受けていた世代によってその民主主義は足蹴にされました。

戦後民主主義が崩れ去った後にやってきたのが日本社会全体の「株式会社化」です。

その寸前まで残っていた農村の共同体は非常に民主的な運営がされていました。

しかし戦後民主主義の進行とぴたりと並走するように産業構造が変わり、ほとんどの人が株式会社的な組織の一員となってしまいました。

株式会社というのはまったく民主主義ではありません。

CEOに全権をゆだねその経営判断が上意下達されます。

政治の世界までまったくその株式会社化がすべて善であるかのような形になっていきました。

 

民主主義というものが、過半数を獲得したものが何をしても良いかのように勘違いしている者が多くなりました。

しかしオルテガ・イ・ガセットというスペインの哲学者が言うように、「民主主義とは敵と共生する、反対者と共に統治するものだ」という定義が、内田さんの考えるところ民主主義の定義の中で最も納得のいくものだということです。

選挙で選ばれた政党の代表者は、その時点で自分を支持しない人も含めた国民全体の代表となります。

その人を「公人」と呼び、それは国全体の利害を代表する人間と言うことです。

日本国の総理大臣というものは本来は日本国民全体を代表する「公人」でなければならないのですが、今の総理(アベの時代でした)は自分を支持しない人間に関してはその声を代弁しないどころか、無視し、積極的に弾圧し、黙らせようとしている。

こういった人間は「公人」とは呼べず「権力を持っている私人」に過ぎないということです。

 

2018年の6月に内田さんが東京の私学文型教科研究会というところで行なった講演録「AI時代の英語教育について」というものが第Ⅳ章に掲載されていますが、これが各所に見るべきものがちりばめられているような魅力ある文章となっています。

学校における英語教育の劣化ということから話を始め、色々なところに話を広げながら続けていくのですが、興味ある話題を次々と取り上げています。

文科省はオーラルコミュニケーション重視と言い出して学校の英語教育をガタガタにしていますが、現在でも言語の自動翻訳は非常に進歩しておりそのような状況を文科省は知っていても無視しているようです。

(コロナ前です)

各地の観光旅館では英語国人だけでなく多くの外国人が訪れていますが、そこの仲居さんたちはもうすでにGOOGLE翻訳を使って接客しているそうです。

英語国人だけでなく他の言語の人々もそういった自動翻訳機のおかげでだいたいの意思疎通はできる程度まではもう到達しているとか。

そんな的外れな教育行政のもと、現場の先生たちが生徒に「何のために英語を学ぶか」ということを提示できなくなっています。

 

かつて、アメリカ文化が日本に襲い掛かって来るかのような状況で、英語を学びたいというのは「アメリカ文化への到達」を目標とするという確固たる道がありました。

それはロシア語やフランス語でも同様で、単にフランスへ旅行に行った時に役に立つなどと言う目的ではなく、具体的に具体的にドストエフスキーカミュを原語で読んで理解したいという目標を持ったうえでの言語の学習でした。

しかし、文科省の言う「英語の使える日本人育成」というのはその「目標文化への到達」などは掲げていません。

オーラルコミュニケーションなどと言うと見失いますが、結局は難しい文法などは習わずに簡単な意思疎通だけをできれば良いというものです。

いわば「ユニクロシンガポール支店長」を育てるだけの意味しかありません。

このようなオーラル偏重は、「難しい英文は読まなくてよい」ということでもあります。

これは、「植民地人の英語教育」に他なりません。

植民地人は、難しい英語原書などを読む必要はありません。

それは本国人にとっては邪魔なことです。

難しい知識を身につけると植民地の状態にもそのうち反発してきます。

そんなことを考えさせないように、簡単な口頭の受け答えだけができれば良いというのが植民地人英語教育です。

学校の英語教育はこの傾向をどんどんと強めていっているようです。

 

他にも興味深い文章が次々と現れてきました。