内田樹さんがとある受験雑誌からの取材で受験について語ったそうです。
blog.tatsuru.com現在の教育や受験についてどう思うかという質問でした。
これに対して内田さんは「受験というもの」「英語教育」「学ぶということの意味」「進路や将来の職業」について語っています。
「受験というもの」は、あくまでも「同学齢集団」の中で「誰もができること」を「他の人より上手くできる」ことを競うものだということです。
このようなことはやればやるほど集団全体の知的能力は下がるそうです。
これは学校への入学を競う受験だけでなく、研究者の中でもポスト争いといった場面でも同じような問題が生じ、その実り無い争いで研究全体の多様性は低下していきます。
これは誰でもうっすらとは実感しているのではないでしょうか。
少し前に中高生の勉強を見るということをやったことがありますが、現在の受験勉強というものは数学の問題の解き方すら丸暗記に近いものとなっています。
こんなことをやって点数だけ良くても想像力などは付かないだろうなと思いました。
「英語教育」は国全体の教育方針に問題があるようです。
かつては外国の言語を学ぶということはその国の文化を学ぶためのツールを身に着けるということでもありました。
外国語学習というものの本質を捉えた次の文章は深い意味を持っています。
外国語の学習には「目標言語」と「目標文化」があります。「目標言語」が英語の場合、目標文化は「英語圏の文化」です。その言語を学ぶと、それを足場にしてその言語圏の文化の深みにアクセスできる。母語の外に出て異文化圏に入り込み、母語とは違うロジック、違う感情を追体験すること、それが外国語を学ぶことのもたらす最大の贈り物です。母語には存在しない概念に出会い、母語には存在しない時間意識や空間意識の中に入り込み、母語には存在しない音韻を母語を語っている限り決して使わない器官を用いて発音する・・・。これはどれも知性的にも感情的にもきわめて生産的な経験です。
例えば英語を学ぶという場合、学んだ英語を使ってその言語圏の文化にアクセスできるということが大切なんでしょう。
日本語には存在しない概念、時間意識、空間意識に触れてそれを使おうと努力する。
そこに外国語学習の醍醐味があるということでしょう。
それをすっかりと取り払い、ただ単に自分の言いたいことを言いっぱなしにするだけの力を持たせることが現在の英語教育になってしまっているようです。
そのため、大学でも英米文学科というものが存立の危機にあります。
話せるだけでよいなら英会話専門学校で十分です。
「学ぶ」とはどういうことか。
これに対しては内田さんは他でも何度も繰り返していますが、「「学ぶ」とは自分自身を刷新してゆくことです。学んだことによって学ぶ前とは別人になることです。」
とされています。
この意識はかつては広くあったのですが、最近では「学ぶ」ことは自己を変えずに知識や情報を増やすことになってしまったのではないかと考えています。
これは私自身にもありそうで、多くの本を読んでいますがそこでは知識や情報を付け加えることが主と認識しているように思います。
ただし、それで「自己は変わっていないか」というとやはり相当変わっているのかも。
会社を辞めるまでそれほど多くの本を読む機会はありませんでしたが(それでも普通の人よりははるかに多くの本を読んでいたとは思いますが)、退職後は図書館に通うのが習慣のようになり、年数百冊の本を読み早10年。(とちょっと)
振り返ってみれば自分も相当変わったのかもしれません。
なにしろ、政治や経済には全く疎かったのですから。
最後に「進路や職業選択」
40年以上前の私の就職活動時にもそうだったのでしょうが、最近では「食うに困らない仕事の選択」が一番のようです。
その一方で「やりたい仕事」というのも若者の意識にはあります。
ここは難しいものでしょう。
ただし、内田さんも言うように、「どんな職業が生き残り、どんな業界がなくなるのか、誰にも分かりません」
AIで消える職業などと言うのが次々と話題になりそういった本も出ていますが、それも確実ではないでしょう。
この部分は内田さんの書き方も今一つはっきりしていないように思います。
ただしあれこれ考えて決めるより色々な人との出会い、偶然で仕事が決まってしまうということもあるようです。
まあ、受験の激化は集団全体の知的能力の低下につながるなどと言われても、実際に受験に向かっている若者たちには何の参考にもならないでしょうが、受験だけが唯一の価値だということは無いということは分かるかもしれません。