和食では「うま味」というものが非常に重要です。
どこの料理でもうま味は必ずあるはずなのですが、それが和食の場合は基本的に肉を食べないということがあったためか、うま味を上手に取り入れることで味に深みを増すことになりました。
そのような「うま味」ですが、昆布やシイタケなどに多く含まれているのですが、それ以上に重要なのが醤油や味噌といった調味料に含まれるうま味成分です。
これが実はその製造過程で重要な働きをする「麹」に由来するのです。
この本ではその「麹」について、歴史的な経緯から微生物学的な知見まで多くの視点から詳しい解説がなされています。
著者の北本さんは醗酵や微生物が専門ですが、国税局の酒類鑑定官としても長く勤務され、日本酒醸造についても深い知識と経験をお持ちです。
日本酒醸造にも麹が大きな役割を果たしますが、同様に味噌や醤油と言った発酵調味料も作り出しますので、著者の専門知識を存分に披露してくれます。
日本の食文化の歴史は、稲作を取り入れた弥生時代の初めから説き起こされますので非常に長くなります。
大陸では肉食が栄えたのにそれは伝わったものの日本では主流とはならず、米と時折取れる魚が主の食生活となりました。
米を使った酒というものも、その源流は大陸にあったのかもしれませんが、その大きな一部が日本独自の発達をします。
それが麹というものなのです。
麹という文字は音読みで「キク」ですが、訓読みでは「こうじ」です。
もしも中国から漢字が伝わった時にその実態が日本には無ければ訓読みというものは無く、すべて「キク」と読むだけだったはずです。
それを「こうじ」と読むということはその時に既に「こうじ」というものがあったからと考えられるわけです。
これは「茶」を考えれば類推できますが、「茶」というものは日本には無かったために茶という植物自体が中国から伝わり、その利用法も同時に伝わったために、茶という字の読み方には訓読みはなく「チャ」という音読みだけです。
つまり日本に酒の作り方が伝わった時にはすでにカビの利用法として「こうじ」があったということなのです。
そして、日本の麹菌は「オリゼー」という独自のものです。
属種名では「アスペルギルス・オリゼー」ですが、中国で麹に使われているカビとは全くことなります。
実はかなり似通ったカビの種類で世界的に広く分布するのは「アスベルギルス・フラブス」という菌です。
このカビは強いカビ毒であるアフラトキシンという物質を作ります。
しかしオリゼはアフラトキシンは全く作りません。
このような性質から別種としていたのですが、その後遺伝子的な解析が進むと意外な事実が分かってきます。
オリゼ菌はフラブスと非常に似た遺伝子構造であり、同じ祖先から分岐したと考えられるのです。
そしてその分岐にあたっては日本人が古くから酒や食品に用いる課程で菌の選択を繰り返したという人為的な作用が関わっているようなのです。
つまり同じフラブスの菌株の中から麹製造に向いた株を選択し続け、その結果別種と見なせるまでになった、そういった日本人の長い関わりが作り出したと言える菌なのです。
その意味も込めて日本醸造学会は2006年に「麹菌は国菌である」と宣言しました。
以来著者は内外の学会でもこれを広く宣伝する努力をしているそうです。
麹の使用の記録はすでに延喜式にも残されているように、古代から使われていたようです。
しかし原始的な方法でありなかなか安定したものではなかったようです。
ところが古代から中世になるとこの麹を専門的に生産する集団が生まれました。
「種麹屋」(もやしや)です。
その存在はすでに鎌倉時代の記録に「石清水八幡宮の麹屋紛争」ということがあり、その時には社会的にも重要な位置を占めるほどとなっているということなので、その誕生はそれよりはかなり以前であると考えられます。
種麹の製造ではその頃にはすでに大きな技術革新がありました。
それが「蒸米に木灰」を加えるというものです。
アルカリ性にすることで雑菌を押さえるとともに必要な栄養素を多く含むことで麹の胞子の純粋に近い培養を効率よくできるようになりました。
その純度は99%に及ぶと考えられ、現代技術のような純粋培養技術が成立する以前にこれほどまでに高純度の微生物を得たというのは他に例を見ません。
麹を使う食品としては、味噌と醤油も重要なものです。
そもそも醤というものは中国で発祥しています。
3000年以上前の周王朝の記録、周礼に記されていますが、ただし中国の醤は原料として肉や魚、穀類などいろいろあったようです。
日本にも色々なものが伝わったのでしょうが、その中でも穀類、特に豆を原料とするものが発達しました。
そして醤に用いるカビも日本独特の麹菌が使われるようになりました。
現在では味噌メーカーでは100%オリゼ、醤油メーカーでは90%がオリゼを使っていますが、醬油メーカーの中には伝統的な「ソーヤ」菌を使うところもあります。
これは「アスベルギルス・ソーヤ」という種の菌ですが、オリゼと同様に元の菌を長年選択し使っていくことで使いやすいものとした菌種のようです。
特に耐塩性が強いことが醤油製造に適しているようです。
本書はさらに江戸時代からの食文化についても記述が進んでいますが、そちらは止めておきましょう。
日本の食文化は麹というものが中心的な役割を果たしてきたというのは、その通りでしょう。
それは今でも続いていて、発酵食品は現在でもさらに隆盛をしそうな勢いです。
発酵食品を楽しむためにもその基礎知識(にしては少し高度かも)を身につけておくことは意味のあることかもしれません。
北本さんは同じ学会に所属していた時期があり、お名前には見覚えがありました。
しかし「ひこ」の字がひらがなというのは印象的です。一度見れば忘れないかも。