爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

湘南地方の鉄道 3駅の記憶 3,辻堂駅

辻堂駅茅ヶ崎・藤沢と比べると最初の頃は縁が無かったのですが、その後は一番身近になります。

 

ja.wikipedia.org

 

辻堂はこの辺でも今昔の差が一番激しいところかもしれません。

かつては北側の駅近くまで大きな工場があり、町は南側に少しあるばかりでした。

今の状況は驚くばかりです。

 

昭和41年(1966年)に茅ヶ崎に小学6年の時に引っ越してきて、その後高校は藤沢に通いましたが、その中間の辻堂にはほとんど降りることもありませんでした。

高校の時の友人が辻堂駅の北東側に住んでいて、そこに数回訪れたことがあるのが、唯一の訪問経験でした。

 

その当時は駅の北側には関東特殊製鋼工場や住金発条工場が並んでおり、たしかそちら側には駅の出入り口は無く、南口から出て東側の踏切を渡ったように覚えています。

 

それからしばらく経ち、会社に入って最初の勤務地の熊本から転勤になってきたのが藤沢の事業所、そして住んだのがそこから少し辻堂側の社宅でした。

1980年代のバブルの寸前の頃です。

会社には徒歩で通ったのですが、最寄りの駅は辻堂駅

買い物も近くで間に合わないものは辻堂駅方面に出かけるということになりました。

 

その頃は、住金発条工場は無くなってその後に駅前ハイツという団地が出来ていました。

まだ関特工場は操業しており、その一帯は昔を思わせるものでした。

 

ただし、すでに北側の山の上に湘南ライフタウンという住宅地が開発され、そこに通じる道路が辻堂駅北口からまっすぐに北上していました。

しかし、その頃にはライフタウン行きのバス路線はほとんどが藤沢駅発で、辻堂から向かう人は少なかったと思います。

距離的にも時間的にも駅に出るなら辻堂の方が有利なはずなのですが、心理的には藤沢へという感覚だったのでしょう。

 

その頃(昭和60年前後)でもやはり辻堂駅周辺は南口側が栄えており、銀行やスーパー、病院等はそちらまで行かなければならない状態でした。

駅の東側すぐの踏切もまだありましたので、そこを渡って行きました。

これはその後地下道化することになります。

 

 開発がかなり遅れていた北口もその後徐々に変わっていくことになります。

www.machi-net.jp引用させていただいたこの写真は1990年代と2014年の辻堂駅周辺の変わり方を示していますが、ちょうど1990年代というのは私が辻堂に住んでいた最後の頃です。

 

南口のロータリーの向こう側に見える東急ストアーの看板など、懐かしい思いです。

また、羽鳥踏切の地下道化の開通が1998年と書いてありますが、これは別の資料にあるように1994年ではないかと思います。

開通式の時には家族で出かけた思い出がありますが、1996年には引っ越していますので、その前だと思うのですが。

 

その頃には北口の関東特殊製鋼、カントクが移転し大規模な再開発がスタートします。

その後、転勤で辻堂を離れましたのであとはあまりよくは分かりませんが、たまに行くことがあるとその変わりようには驚くばかりです。

 

母が存命中には茅ヶ崎から辻堂に移転した徳洲会病院に少しの間入院していたこともあり、その時にはすでにテラスモール湘南も開店していて、あまりのまばゆさにびっくりするばかりでした。

こりゃもう茅ヶ崎と辻堂の位置が逆転したかと思いました。

 

しかし、あの最初に暮らし始めた頃の辻堂が、その所々に松林と砂地が現れる状況と共に、非常に懐かしく思い出されます。

もうほとんど見ることもできない風景でしょうか。