爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

湘南地方の鉄道 3駅の記憶 1,茅ヶ崎駅

また若い頃に戻った夢を見まして、高校の同窓生と修学旅行に出かけるというものですが、「夢の話」で書くにもあまりにも荒唐無稽な内容なのでちょっと控えておきます。

 

しかし、その中で「藤沢駅に集合」というところがあり、そこに出てきた駅は若い頃の駅ではなく最近のものでした。

そう言えば、あの辺の駅の光景もかなり変わったなと思い、その記憶について書いておこうかと思います。

 

このところ、コロナ禍や脱炭素化の動きなど、このブログで書きたいことが次から次と出てきますが、一応記事を書くのは1日2つまでにしておこうと思っていますので、書きたいことが溜まってしまい、メインのはずの読んだ本の読書記録も書き溜めたものがいくつもあります。

こんな状況でさらに別のものを書いていると、さらに滞留記事が増えるのではとも思いますが、思いついた時に書かないと忘れるので仕方ない。

 

3駅とは茅ヶ崎、藤沢、辻堂です。

いずれも人生の各段階で深く関わっていた駅です。

 

それでは、最初は茅ヶ崎駅から。

 

1,茅ヶ崎駅

 

ja.wikipedia.org

 

最初にここに行ったのはおそらく昭和41年(1966年)、小学校6年生の時です。

転勤を繰り返していた父が定年間近となり、最後に東京勤務となったので終の棲家として以前から購入していた茅ヶ崎の土地に家を建てて父としては最後の引越しをしました。

 

そこに降り立った最初の感想はやはり「すごい田舎」だったでしょう。

その時に住んでいたのは東京都三鷹市、これも現在とは異なり郊外の雰囲気が強かったのですが、そこから比べても茅ヶ崎の田舎感は大変なものでした。

 

今の駅からは想像もできませんが、橋上駅ではなく南北の両方に駅舎と改札口があり、切符を切って跨線橋を渡りホームに出るという、昔は普通だったタイプのものです。

 

今でもそうですが、駅前のにぎわいは北口の方が盛んで、南口には商店も少なく飲食店もそれほどはありませんでした。

駅前広場は今でも狭いのですが、当時はさらに狭くほとんど無いという状況でした。

 

私の母も買い物にはどうしても北口まで行かなければ揃わないものもあったようですが、当時は駅構内を通るには入場券を買わねばならず、駅より西側に少し離れた大踏切を渡っていました。

今では立体交差になっていますが、まだ踏切でしかも電車の本数も多く自動車の交通量、歩行者や自転車も多く危ない踏切でした。

 

私が子供の頃に北口によく出かけたのは、駅を出て少し東側に行ったところにある模型屋に買い物をしたり棚の商品を見たりしに行った時のことです。

いつもご主人が店番をしていて、顔なじみになりました。

最近までは営業していたと思いますが、現在では廃業し駐車場になっているようです。

 

 

その後、高校大学(プラス予備校)はそこから電車に乗っての通学だったので毎日のように駅を利用しました。

駅前広場に達した時に電車が入ってくると、そこから走って何とか間に合ったものです。

とはいえ、その当時でも電車の本数はかなり多く、1本待っても大したことはありませんでした。

予備校・大学時代は東京までの長い長い乗車でしたので、できれば座りたいと思い先頭車両の方まで行ったものでした。

他の駅でも西側の方に出入り口があるところが多かったためか、比較的東京寄りの車両の方が空いていたようです。

しかし徐々に混雑が激しくなり、茅ヶ崎ではほとんど座れなくなり横浜で降りそうな人を見つけるという競争になっていきました。

 

 さすがに徐々に開発の波が押し寄せ、駅の橋上駅化と駅ビル建設ということになったのは、私が大学を卒業して就職し茅ヶ崎を離れた後の話です。

記録によれば橋上駅化と駅ビル(茅ヶ崎ルミネ)の開業は1985年4月。

実は就職して一旦離れた後に転勤で藤沢に帰ってきた後のことでした。

この駅は基本的には今でも変わっていませんので、多くの人の記憶にある通りのものです。

その後は駅前にビルが建っていき、駅前広場の整備も進んで行きます。

実家の両親を訪ねるために通るくらいになっていき、茅ヶ崎駅利用も少なくなりました。

今では両親も亡くなりほとんど行く機会はありません。

 (3回まで続く)