著者の宮原さんは1972年に芥川賞を受賞している作家ですが、「作家を目指す人」たちへの「小説の書き方」の指導にも力を入れてきたそうです。
横浜文学学校という場で指導をしたのですが、その中から、村田沙耶香さんが2016年芥川賞、伏本和代さんが第75回文学界新人賞を受賞したということで、この本も2001年に出版したのですが、それにさらに書き加えて増補新版として発行しました。
小説家を目指す人たちの中には、手記・エッセイ・随筆・自分史などで十分な経験を積みある程度の力量を認められた人が、いざ小説に挑戦ということになって書いてもなぜか上手く行かないということがよく見られるそうです。
文章力はある、感性も良い、いい素材を持っている、それでも小説というものについての基本的な勘違いがあるようです。
色々な方向からその勘違いを洗い出し、指導してきた人たちの実例を挙げて説明していきます。
「シーンと配列」「小説の構造」「フィクション」「人間像」「ディティール」「会話」「短篇」「文体」「発見としての創作」「読者の存在」とあげていくと大体そのポイントも想像できるものがあるようです。
どうも上手く行かないという人はやはり全体の構成力が不足しているようです。
小説の様々な場面、「シーン」というものを積み重ねて構成していくのですが、その展開がきちんと決まらないまま書いていっても訴えるものが無いようです。
中には小説がスタートしてしばらくしてから設定を後出しするという、「設定の後だし」なる禁じ手をしてしまう場合もあります。
設定はできるだけ前の方に出してそれを「伏線」として徐々に回収していくというのでなければ読者は安心できません。
小説には必ず登場人物がいるのですが、その人物像を魅力的にするのが一番大切なことです。
つたない作者はつい、素材自体に魅力があると思い込んでそれを書いていけば読者も魅力を感じてくれると思いがちです。
しかし、そうではないことは芝居を考えれば分かります。
同じ芝居でも良い役者が演じた時とそうでもない役者の場合では芝居の魅力が全く違います。
小説でも登場人物に魅力を感じられるように描くかどうかが小説の魅力となるということです。
小説の中で「会話」を描写することは頻繁に出てきます。
しかし、その会話が「情報」であるか「描写」であるか。
実際の会話において、あまりそれを通じて「情報」を与えるようなセリフを言うことはありません。
しかしどの小説でもある程度は「情報」を与えないと読者には通じないということで、それを入れる必要が出てきます。
古代ギリシャの悲劇作家ソポクレスの「ピロクテス」の冒頭のセリフでも、
オデッセイ「これが海にかこまれたレムノスの岸辺だ、アキレウスの子よ、わたしがポイテスの子ピロクテスをここにおきざりにしてからずいぶん時がたつ」
と書かれていますが、実際にこのようなセリフをしゃべるはずはありません。
レムノスの浜にいるのは分かり切っていますし、相手もアキレウスの子であることは分かる。
実際には「ピロクテスをここにおきざりにしてから長く経ったな」とでもしゃべったはずですが、それでは読者には伝わらない。
ある程度は説明的なセリフが必要だが、あまり長くなりすぎると不自然。
そこの度合が重要のようです。
小説の創作とはなかなか奥の深いもののようです。