爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「戦争というもの」半藤一利著

半藤一利さんは昭和の歴史、特に戦争史を長く書き続けてきましたが昨年1月に亡くなりました。

この本はその前年、戦時中の軍人の言葉や流行したスローガンなど「戦時中の名言」とされる言葉についての随想を綴るという構想でまとめられたものですが、これが最後の著作となってしまいました。

なお、この本の編集にあたったPHP研究所の北村淳子さんは半藤さんの実のお孫さんにあたるということで、編集後記も書いていますが、半藤さんはこの文を「孫に読ませたい」というつもりで書いたということです。

 

引かれている言葉はその時のものばかりではなく、歴史的なものも含まれており、北畠親房の「大日本は神国なり」や岡倉天心の「アジアは一つ」などというものもあります。

また「バスに乗り遅れるな」や「タコの遺骨はいつ還る」「欲しがりません勝つまでは」といった誰が始めに使ったかもわからないまま流行した言葉もあります。

また軍人の言葉には今ではあまり有名とは言えないものもあるようですが、当時は皆聞いたことがあったのでしょうか。

鹿龍之介(当時南雲機動部隊参謀長)の「敗因は驕慢の一語に尽きます」や、河辺虎四郎(当時陸軍参謀次長)の「予の判断は外れたり」はほとんど聞いたこともありませんでした。

 

昭和16年アメリカ政府に対し必死の外交交渉が続けられていた中、アメリカのハル国務長官からしめされた「ハル・ノート」が日本の提案をすべて拒絶した強硬案でありそれで日本も開戦を決意したのですが、しかしそれ以上に日本の国民の戦争期待の意識が非常に高まっていたとも言えます。

敗けた後の考えでは国民も軍部に引っ張られたと考えがちだったのですが、実際には国民の方が好戦的とも言える状況だったようです。

11月29日に天皇の意向を受け若槻礼次郎岡田啓介などの重臣たちと政府の懇談会が開かれました。

その場で非戦論者として知られていた東郷茂徳外相すら「開戦やむなし」と語るのを聞き重臣たちも唖然としたそうです。

「ジリ貧」「ドカ貧」という言葉もこの時に初めて使われたということで、その後は流行してしまいました。

その場での若槻と東条首相の議論は東条の状況認識の浅さ、甘さが露呈しているのが明らかなのですが、その時にはそれを止めることもできなかったものです。

ナチスドイツの初期の華々しい戦果に、「バスに乗り遅れるな」とばかりに同調しようとしたものですが、実は日本開戦の時点ではすでにソ連戦線ではナチスの敗走が始まっており、その情報をきちんと得ていればと思います。

 

岡倉天心明治36年に発表した「東洋の理想」という本の冒頭に載せていた言葉が「アジアは一つ」でした。

岡倉は当時のアジアが欧米の植民地として搾取され苦しんでいた状況からの解放を願ってこの本を書いたのでした。

しかし開戦直後からアジアへの侵攻を進めた日本はイギリスやオランダの勢力からの植民地の解放を為したつもりでしたが、その後は日本軍が軍政を敷いて圧政を行いました。

実際にはアジアの諸民族から憎まれることとなっていたのにも関わらず、「アジアは一つ」の言葉を誤解した日本人は彼らから感謝されているという妄想を抱いたのでした。

 

半藤さんはこの本に載せられた14の言葉の他にも全部で37の言葉をリストアップしていたそうです。

それらのすべてを書くことができなかったのが心残りだったかもしれません。