太平洋戦争の経緯を中心に様々な証人と資料にあたってその真相を明らかにしてきた半藤一利さんは昨年亡くなられました。
半藤さんの語った言葉、そして数々の論客との対談の様子をまとめたもので、晩年の半藤さんの言い残したかったことが語り尽くされているということです。
最初に監修の保阪さんが要約を書き、そのあとの対談は東京新聞と中日新聞の紙上での様子が再録されています。
対談の相手は、保阪正康・田口ランディ・古川隆久・中西進の面々です。
半藤さんは「大事なことはすべて昭和史に書いてある」と言っていたということですが、日清日露の勝利に酔いしれ道を誤り太平洋戦争の敗戦に向かって行った中に日本の良いところも(あれば)悪いところもはっきりと出てきているということでしょう。
5つの教訓として挙げていたものが次の通りです。
1.国民的熱狂をつくってはいけない。そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命である。
2.最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。すなわちリアリズムに徹せよ。
3.日本型タコツボにおけるエリート小集団主義(例・旧日本陸軍参謀本部作戦課)の弊害を常に心せよ。
4,国際的常識の欠如に絶えず気を配るべし。
5.すぐに成果を求める短兵急な発想をやめよ。ロングレンジのものの見方を心がけよ。
自身を振り返ってみるべき教訓かと思います。
半藤さんと保阪さんの対談では東京裁判が主題となっていました。
その中で、特に天皇の免責というものがGHQと日本側の裏での取引で規定事実となっており、そのために周到に準備された裁判であったということです。
東条元首相に対しての尋問の中で、「日本国民が陛下の意思に反することはありえず、高官はなおさらだ」と答えてしまい、それでは天皇の戦争責任があらわになるとして東条元首相に何人もの人が証言を変更するように説得したそうです。
それを指示したのがキーナン検事(東京裁判の主席検察官)だというのですから、茶番劇ということはここからも明らかでしょう。
何人かの文章で書かれていましたが、半藤さんはかつては左派の人々からは「保守半藤(反動)」と称されて論敵とみなされていたのですが、最近ではネトウヨという連中から「反日」というレッテルが貼られていたそうです。
本人の言うことは変わっていないのに、世の中がどれほど変わってしまったのかということが判ります。
「明るい明治、暗い昭和」という歴史観を持つ人が多いようですが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の影響も強いようです。
しかし、海軍が作った戦史の正本3部のうち1部が天皇に献上され2部は海軍に残されたものの、敗戦時にその2部は焼却されました。
その後天皇に献上された1部が公表されたのですが、そこに書かれている内容は坂の上の雲のものとは全く違い、多くはその後美化された内容のものにすり替えられていたのだそうです。
司馬が書いた時代にもすでに内容が曲げられ神話化されたものしかなかったためにあのような小説となったそうです。
対談の最後の相手の中西進氏は「令和」という元号を決めたとされている人ですが、半藤さんとは大学で同級だったそうです。
中西さんは大学時代から万葉集の研究に打ち込んだのですが、半藤さんはボートばかり漕いでいたとか。
なお、万葉集の時代の読み方に従えば本当は「令」の字は「りょう」と読むべきなのですが、まあ元号は「れいわ」で良かろうということだったそうです。
惜しい人が亡くなったものと思いますが、山ほどの著書が残されていますので、それを読み直していくべきなのでしょう。