爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「賊軍の昭和史」半藤一利、保阪正康著

「勝てば官軍」などと言いますが、こういった「官軍・賊軍」という考え方が広く行き渡ったのは幕末維新の戊辰戦争の頃からだそうです。

 

しかし、その後は「勝った官軍」側の特に長州閥が明治政府などを支配してきました。

特に顕著だったのが軍隊で、長い間官軍側がほとんど力を握っていました。

そしてそれが満州事変から太平洋戦争へと至る戦争への道を進ませたそうです。

さらに、その戦争が行き詰まりどうしようもなくなった時に何とかそれを終わらせたのが、賊軍側の出身者でそれまでは軍隊内や政界ではあまり陽の目が見られなかった鈴木貫太郎や米内光政であったということです。

 

このような、「賊軍史観」とでも言うべき観点から見てみると、意外に分かりやすく明治から昭和にかけての日本というものが見えてくるということを、半藤一利さんと保阪正康さんが対談し明かしていきます。

 

官軍賊軍という呼び方は、源平合戦南北朝時代にもありましたが、やはり世間に広まり実質もあったのが戊辰戦争の時からでした。

 

薩長が結び幕府方と戦い始めた鳥羽伏見の戦いの時に、薩長側についた公卿の三条実美が昔の古文書から探し出した「錦の御旗」というものを、桂小五郎の愛妾の幾松が反物を京都の町で買い、品川弥二郎がそれを長州に持って帰って作らせたのがその時の錦の御旗でした。

これを戦いの時に長州側が立てたのを見て、徳川慶喜は戦意を喪失し逃げ帰ってしまいました。

慶喜尊王の思想が厚かった水戸徳川の出身でそれが身に染みついていたために特別に応えたからのようです。

このように、偽の錦の御旗と言ってもよいようなもののために、賊軍となったと勘違いした慶喜の戦意喪失で決まってしまいました。

 

その後も強引な戦法で幕府を倒した薩長側は、明治となっても賊軍とされた諸藩の差別を露骨に進めます。

その出身者は政府や軍部に採用したとしても冷遇するということを続けています。

 

靖国神社は長州の大村益次郎が作った招魂社が発展していますが、そこにも戊辰戦争で賊軍とされた人びとは祀られていません。

ただし、それだけでなくまだ長州が官軍となっていない(賊軍状態)だった禁門の変の長州側戦死者は合祀されているというおかしな点はあります。

靖国神社については、官賊という以前に長州史観とでも言うべき思想のもとに作られているようです。

 

その後、政治の分野では徐々に長州閥以外の出身者も進出するものの、軍隊では長く薩長が優先するという体質が残っていました。

特に海軍では総人員数が陸軍に比べて少ないということから、その影響力も強く、山本五十六は新潟長岡の出身、米内光政は岩手盛岡の出身ということで、海軍内では主流派とはなれず傍流ばかりを歩かされました。

陸軍は長州閥の支配から比較的早く抜けたものの、それに似た官軍的思考の者たちが中心を占め、やはり戦争への道をたどったようです。

 

そして、戦争の最後にもうどうしようもなくなった時に終結へ向かうことができたのは、やはり賊軍出身であった鈴木貫太郎だけだったということです。

 

なお、米内光政、山本五十六、井上成美の3人を「海軍三羽烏」と呼んで善玉として評することが定着していますが、これは阿川弘之がこの3人を主人公として書いた小説のイメージが定着してしまったためで、実際には海軍が良くて陸軍が悪いといったものではなく、やはり海軍もほとんどは戦争に向かっていたということです。

ごく一時だけ三人が開戦ムードを押しとどめたという時期があったのですが、結局は何もできなかったということになりました。

 

最後に軍人の中にもまともな人間がいたということで、仙台出身の今村均陸軍大将を紹介しています。

今村はインドネシアのジャワの司令官だった時には圧政はせず地元民を尊重していました。

戦後の戦犯裁判では起訴はされたものの証拠がそろわず禁固刑となったのですが、一人だけ国内に移送され巣鴨で収監されることは断り、部下たちとともにニューギニアの刑務所に入ります。

その後釈放されて帰国しても家の庭に刑務所と同じ広さの謹慎小屋を建ててそこで暮らしたということです。

 

旧帝国軍には官軍体質が色濃く残り、それが戦争へと向かわせたという認識でしたが、どうもそういったところは軍隊だけでなく各所にあったように感じます。

それは今でも同様なのかもしれません。