半藤さんは2021年にお亡くなりになりましたが、それ以前に足を骨折し入院したことがありました。
その頃にもう時間がないということを自覚したのか、半藤さんがまだ単行本にしていない文章をまとめておきたいと、講談社編集部に依頼したのがこの本です。
5篇の文章が収められていますが、中の「名言坂の上の雲」は実はすでに文庫本として刊行されていたそうです。
なお、編集が遅れて本の出版は半藤さんの死去に間に合いませんでした。
その文章と初出は次の通り。
「墨子と龍馬と」季刊文化、2011年5月
「明治の将星のリアリズム 名言”坂の上の雲”」ツインアーチ2009年2月号から2010年2月号
「石橋湛山と言論の自由」、東洋経済新報社創立115年記念シンポジウム基調講演
「昭和天皇の懊悩と歴史探偵の眼」有隣2015年3月
「人間であることをやめるな」スタジオジブリ絵コンテ全集「風立ちぬ」月報、2013年
中でも「名言坂の上の雲」という文章は半藤さんの思い入れが強いもので、どうしても残したいという思いがありました。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」は多くの人が読んで感銘を受けていますが、その内容は通俗的な説によるものが多く、事実と異なるものも数多く含まれているようです。
日清日露戦争などの指導者を持ち上げる内容は、意図的に作り上げられたものも多いのですがすでに太平洋戦争に向かう時代にはその実際の関係者は死亡したり引退していたということもあります。
しかし昭和も末になって真実を伝えたという資料が発見されました。
「極秘明治三十七八年海戦史」という史料で、日本に三組だけあったのですが、その内海軍軍令部と海軍大学のものは終戦時に焼却という愚行がされました。
一組だけ残っていたのが皇居の奥深くだったそうです。
それによれば、バルチック艦隊の進路について最初は対馬海峡を考えていたものの、なかなか現れないので日本海軍内部にも北海道迂回説を唱える者がでてきました。
しかし東郷平八郎長官は微動だにせず、「敵は対馬海峡に現れる」と言い放ったというのが通説で、東郷長官の神格化がされていました。
しかし「海戦史」では、それは否定され、東郷長官をはじめ幕僚たちはロシア艦隊の消息不明に慌て、日本艦隊を移動させることを決意していました。
その命令を「密封命令」として、開封時刻を24時間先とするとして発したのですが、その24時間内にバルチック艦隊が上海に入港という連絡が入り、密封命令も無かったものとしたそうです。
石橋湛山は名前だけは知っていましたが、その事績というものには初めて触れました。
東洋経済新報社の創立記念シンポジウムでの講話ですが、石橋は東洋経済に入社し、時の政府や軍部を真正面から批判する記事を連発していたそうです。
政府軍部をはじめ国の大半が「大日本主義」に毒され、身分不相応の道を歩んでいこうとしている中で、石橋は「小日本主義」こそが日本の取る道だと信じそれにそった言論を発し続けました。
朝鮮や満州、台湾などの植民地や権益などはすべてこちらから放棄すれば、ヨーロッパ大国などは自らの姿勢を恥じて日本に反論できないだろうと述べました。
軽武装・小国主義を取れば世界の尊敬を集め、英米などの大国の先を行けるだろうと。
半藤さんは石橋湛山に対する尊敬の念は非常に強かったようです。
この講演の中でも他の人物は呼び捨てでも石橋湛山のみは「さん」付けをしていました。