爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

引越しの思い出

3月末といえば引越しの一番集中する時期でしょうか。

私もこれまでの人生で20回ほど引越しをしていますが、多くは3月末であったように覚えています。

 

というわけで、これまで経験してきた引越しの中で印象深いものを書き記してみたいと思います。

 

昭和37年(1962年)のおそらく3月末に父の転勤で名古屋から福岡に引越ししました。

それまでにも数回の引越しをしていますが、幼くてほとんど意識もなく、「家が変わるんだ」という感覚を覚えたのはこれが最初でした。

名古屋の小学校に入学し1年過ぎた頃のことで、通学の時に一緒に居た友達に「今度福岡に引越しするんだ」と話をしたという記憶があります。

その相手が誰だったのかも分かりませんが、近所の同学年の子どもの一人だったのかもしれません。

到着したのは現在の博多駅の地ではなく、旧駅でした。

記憶が定かではありませんが、蒸気機関車だったような気もします。

現在の地下鉄祇園駅の辺りだそうです。

その翌年には現在の地に移転、どんどんと発展していった高度経済成長期のことでした。

 

昭和41年(1966年)、福岡から東京へ転勤となった父はその後すぐにかねてから準備していた神奈川県茅ケ崎市にようやく定年前となって自宅の新築を行いました。

転勤後は三鷹市にあった社宅に入ったのですが、直後から住宅展示場などを見に通うようになり(たしか遊園地に隣接していたので、ついでに遊ばせてもらいました)そのうちに建設会社の人が家に来るようになり、とんとんと話が進んで建築工事となりました。

家が出来上がったのが昭和41年の7月で、この時は7月の引越しでした。

それでようやく弟と一緒ではあったものの子ども部屋が独立し、二段ベッドで眠るようになりました。

茅ヶ崎は今の様子とはかなり違い、松林の中を砂だらけの道が通っているといったところでしたが、砂にタイヤを取られながらも自転車であちこち遊びまわったものです。

 

だいぶ飛びますが、昭和62年(1987年)のこれも7月。

(3月末の引越しが多いと書きながら他のシーズンの話ですが、やはりそちらの方が異例だったため印象も強いものが多いようです)

下の子の出産のために家内と上の子は里帰り、無事に産まれたのが上旬でその時は私も飛行機で駆け付けました。

帰って出社してびっくり、群馬県の財団法人の研究所への派遣の命令が出ました。

妻子はまだ当分は帰っては来られず、一人で引越しをしなければならなくなりました。

幸い、近くに住む私の母親もまだ50代、荷造りの手伝いに来てもらい何とか引越し準備をしました。

引越し当日は叔父(母の弟)にも応援を頼み、荷出しから車での移動、荷入れまで手伝ってもらい、何とか引越し完了。

家内も里帰り出産のため出発した時には帰ってくる先が違うなどということは想像もしなかったでしょう。

 

そして最後の引越し。

2012年3月、出向先だった石川県の第3セクターのプロジェクトが終了し、時を同じくして会社も退職して家に帰ることとなりました。

ちょうど時期も3月末、引越しも集中する時期ですので日程も限られ業者選定もままならぬという頃です。

それでも何とか3月30日に荷出しとアパート引き払いを行うことでまとまったのですが、帰りの飛行機が取れず4月1日に。

どうしても1日だけ余計に金沢に居なければならないということになりました。

そうとなれば仕方なし。

せっかくなのでそれまで行ったことのなかった場所を見て回ることにしました。

午前中に荷出しとアパート退出手続きも終了、その日のうちにレンタカーを返却すれば良いということだったので、白山方面に行ってみることに。

その年もかなりの大雪でしたがさすがに3月末ともなればかなり雪解けは進んでいました。

それでもあまり山奥まで向かうと帰りが遅くなって大変なので、手取峡谷の手前で引き返し、一向一揆資料館というところを見学して戻りました。

レンタカーを返して宿泊は金沢駅近くのホテル。

翌日は富山に向かい高岡周辺の観光へ。

港の方まで行ってみようと思っていたのですが、風雨共に強くあきらめて高岡城址や瑞龍寺という禅寺を見た程度で金沢に戻りました。

まあ、一人だったので気楽な引越しだったと思います。

 

さて、これで引越し打ち止めとなりますかどうか。