グローバリズムがますます進行していますが、その一方で民族やナショナリズムというものが強力になっているようにも見える世界です。
しかしそもそも「民族」「エスニシティ」「ネイション」「ナショナリズム」という言葉の意味自体、きっちりと決まっているとも言えないようで、人によって指す対象が違っているようでもあります。
このような現状について、国際関係論が専門で特にロシア現代史を中心に研究してこられた塩川さんが、解説をしています。
そのような状況ですので、本書もまず第1章は「概念と用語法」と題し、整理を試みています。
さらに第2章以降は歴史的な経緯をたどり、第2章では「国民国家の登場」、第3章では「民族自決論とその帰結 世界戦争の衝撃の中で」、第4章は「冷戦後の世界」と時代ごとに分けて論じます。
最後の第5章で、「難問としてのナショナリズム」と題し、現在の世界でも大きな問題となっているナショナリズムをどうしていけばよいのかを提示しています。
用語法の解説の最初は「エスニシティ」から始まりますが、これも人によりその使い方もかなりの差がありますが、ここを決めなければ話が始まらないとばかりに、えいやっと決めてしまいます。
エスニシティとは「血縁ないし、先祖・言語・宗教・生活習慣・文化などに関して、”我々は○○を共有する仲間だ”という概念が広がっている集団」を指すということにします。
ただし、この定義は世界どこでも通用するというわけではありません。
血縁・先祖からいくつも羅列した項目のどれを優先するかということも、集団によって大きな違いがありそれによって集団の定義も揺らぎます。
しかしここを決めておかなければ話が進みません。
このようなエスニシティを基盤とし、その「われわれ」が一つの国やそれに準じる政治的単位になるとき、それを「民族」と呼びます。
「民族一歩手前」という集団も多く見られますが、一応広義の「民族」と考えます。
「国民」とは何かと考えると、国によって違いが大きく出自や文化的伝統がかなり異なる構成員を含む場合があり、「国民」は必ずしもエスニックな同質性を持つとは限りません。
つまり「国民」と「民族」「エスニシティ」はまったく違う概念であり、次元を異にすると言えます。
ただし、これはあくまでも日本語の用語に関してのことであり、ヨーロッパ諸語においては「ネイション」(英語の場合)は「国民」と「民族」の両方の意味を持ちます。
しかしヨーロッパでも他の言語の場合はそう決まっているわけでもなく、ナシオン(仏)、ナツィオーン(独)、ナーツィヤ(露)の意味はそれぞれの国と時代によってかなり多様なものを含んでいるようです。
ネイション、ナショナリティにあたる言葉はヨーロッパ諸語にありますが、そこにエスニシティ的なニュアンスがどれほど含まれているかということは各言語によって差があります。
英語、仏語においてはエスニシティ的な要素はあまり無く、日本語で言って「民族」よりは「国民」の意味に近いようです。
(ただし、国によって差がありアメリカではほぼ完全に「国民」ですが、カナダでは英語系・仏語系のネイションがそれぞれ存在するという概念が強いようです)
これに対し、ドイツやロシアではこの語にかなりエスニックな意味が含まれています。
そのため、英語の場合とは異なりこの語に「国籍」と意味は無く、国籍を表すには他の語を使います。
ナショナリズムという問題を考えていくにも、エスニシティ、民族、国民というものの状況によって一概には言えずその違いは大きなものです。
これらを整理するために4つの類型に別けて考えています。
1,ある民族の分布範囲より既存国家が小さい場合。
ロシア人が他の国に多数住んでいたり、セルビア人、ハンガリー人がその名の国家より広い範囲に居る場合です。
2,逆にある民族の居住範囲がそれより大きな国家に包摂される場合。
これはその国において少数民族と扱われることになり、分離独立運動などにつながることがあります。
3,ある民族の居住範囲がある国家とほぼ重なっている場合。
この場合はナショナリズムの問題は起きなくても良さそうですが、やはり起きています。
4,ある民族がさまざまな場所に分散しており、そのいずれでも少数民族である場合。
いわゆるディアスポラで、ユダヤ人の他にもアルメニア人、中国人(華僑)、インド人(印僑)などです。
第2章以降では「国民国家」を誕生させた西ヨーロッパに始まる歴史的な背景について説明されています。
典型的な例としてのフランスとイギリスであっても、その事情は大きく異なるということです。
なお、国民国家が始まる前には「帝国」という存在が広く世界を覆っていました。
しかし帝国が解体し国民国家が誕生していっても帝国がなくなったわけではありません。
国民国家誕生以前の「前近代の帝国」、その後の「近代帝国主義」さらにごく最近には「新しい帝国」というものも出現しています。
ここでの説明はヨーロッパ諸国だけでなく、ロシアやオスマン、アジア各国まで例とされており、非常に多くの例を取り上げています。
ただし、分かりやすくなったかというと逆にごちゃごちゃして何が何やら?という感じもしますが。
その後の2回の世界大戦、そしてその後の植民地の独立など、民族と国家をめぐる情勢は大きく動き続けます。
そして第5章「難問としてのナショナリズム」になだれ込むわけです。
「良いナショナリズム」「悪いナショナリズム」を区別して考えるのか。
「シビック・ナショナリズム」「リベラル・ナショナリズム」などと言うものも出てきます。
さらに「ナショナリズムは飼いならせるのか」と進行していきますが、これは結局この先どうなるか分からないということなのでしょうか。
しかし現在進行中の国際紛争、軍事衝突でもその多くは民族に関係するとされています。
日本も決してその問題と無縁ではありえず、多くの「国内問題」「国際問題」が直接間接に民族というものとつながっているようです。
まあ、この本を読んだだけで正解や打開策が見えるわけではないのですが、少なくとも歴史上、そして世界各地の民族問題というものが見渡せるという意味は大きかったように思います。