道というものは古代から存在していたのでしょうが、「街道」となると特に江戸時代になって大きく発展しました。
古代ローマのようにすべてを石畳にしてしまうということはなかったものの、各地に宿場町を作るなど整備されました。
そのような街道について、全国にどういったものがあったのかを詳しく解説しています。
いわゆる「五街道」、東海道や中山道といったものは有名ですが、それ以外にも各地に多くの街道(単に”道”とか”道中”と呼ばれたものもあり)が存在しました。
中には私もまったく知らなかった名前もかなりありました。
盛岡から太平洋岸の小本(おもと)に通じる小本街道は、早坂峠などの急峻な峠道をたどるもので、あまりにも急坂であるために馬は使えずに牛に頼っていたそうです。
スピードは上がらないものの、坂道をゆっくり登る能力は馬より牛の方が優っていたということで、あの有名な「南部牛追い唄」といのはここの牛方の民謡だったとか。
一方、信濃の下諏訪から飯田を通り三河の岡崎に至る伊那街道(三州街道)は別名が「中馬街道」とも言われたように、馬による物資輸送が盛んでした。
これは、伊那街道が脇街道にもならない道であり参勤交代などの公的な往来が無く、また天竜川が急流で舟による輸送が不可能だったため、馬の背に荷物を載せて運ぶということが唯一の輸送手段となったためだそうです。
飯田の町は中馬の中継基地として栄え、一日に千頭以上の馬が出入りしていたということです。
富山と飛騨高山を結ぶ飛騨街道も急坂が続く道で牛の輸送が主でした。
これを当地では「度市参(どしま)」と呼んでいたそうです。
しかし積雪の多い冬季には牛も動けず、頼りになるのは歩荷(ぼっか)すなわち人が背に荷物を背負って歩くというものでした。
塩やブリなどの海産物を一人60㎏ほど背負って10人以上が一団となって歩いたそうです。
九州を鹿児島に向けて通じる街道は薩摩街道で、八代以南は現在の国道3号線沿いに水俣阿久根、川内と通っていきますが、山沿いに入る人吉街道も使われました。
現在のJR肥薩線沿いに人吉まで入り、その後はえびの高原は通らずに久七峠から大口に出るルートです。
しかし、球磨川沿いは危険ということで、山を登り肥後峠を通るルートも使われていたようです。
現在の九州自動車道とほぼ同じ道筋ですが、高速はほとんどトンネルですので、昔の面影はありません。
現在の物流状況から見れば微々たるものかもしれませんが、当時は物資輸送や人の移動に使われていたのでしょう。
しかし、今では河川というものが簡単に橋で越えられるのであまり障害という感覚はありませんが、かつては橋の建設が難しく、それよりは高い峠を越える方が楽だったというのは今から考えると盲点になりそうです。
東海道より中山道が選ばれたというのもその感覚を想像しなければ分からないものなのでしょう。