「宛字」とは「あてじ」であり、通常の表記では「当て字」の方が普通ですが、そこはこういった本を書く著者ですので、理由があってのことでしょう。
漢字とはもちろん中国で生まれて日本に伝わってきたものであり、元はそれぞれの字に意味があり読み方も(時代と場所により変わったとはいえ)決まっていたものです。
しかし、日本でその漢字を使って日本の事物を表現することになったのですが、最初はすべて当て字であったとも言えます。
それを意味を取りながら訓読みと言うものを生み出しますが、意味を先行させて読み方を自由に変化させるようにもなり、当て字と言うしかないものも生まれてきました。
本書ではそのような宛字108を示し、その成り立ちなどを解説しています。
なお、巻末に第2部として「宛字概説」というものも付されており、宛字そのものの議論についてはこちらの方が詳しくなっています。
宛字というものがもっとも華やかに花開いたのは江戸時代から明治初期であったようですが、その当時に使われたものの多くは現在は使われていないために、本書で引かれている108もほとんどそのままでは読めないものが多かったようです。
四阿、年魚、十八番、七五三縄などは何とか読めますが(あずまや、あゆ、おはこ、しめなわ、です。念のため)
一二三(うたたね)、太田道灌(にわかあめ)、家鹿(ねずみ)、歌女(みみず)などは聞いたこともなかったものでした。
東京の九段の近くの地名で一口坂というところがあるそうです。
これは今では「ひとくちざか」と読むのが普通になっているようですが、元は「いもあらいざか」であったそうです。
元は京都の地名で、一説には「三方が沼で一方だけ水の流れる口があり、そこで芋を洗っていた」からであるとか。
そこにある疱瘡除けの神社を江戸にも勧請したのが起こりだということです。
漢字に対しひらがな、かたかなを仮名と書きますが、これは本来は仮字と書くのが本当です。
日本語では「字」を「な」と呼びました。
そのため、仮字とかいても「かな」と読むべきですし、本当は漢字も「真字」と書いて「まな」と読むべきものだそうです。
古代の日本で漢字というものを輸入してきた時には、漢字に対して日本語の意味を当てていくという作業が行われました。
その時には「山」という字が「やま」という意味にあたるということでしたが、これも広義でいえば「宛字」ということができるでしょう。
しかし、徐々に定訓として定着してきたので宛字としては扱わなくなりました。
しかし、あくまでも相対的なものであり、定訓か宛字かというのはそれほど明確に分かれているわけではありません。
漢字の使い方で、まだ実験を重ねていたというのが万葉集の時代であり、そのような例が多く見られます。
平安時代から鎌倉時代にかけて、日本人は漢字をさらにいっそう日本語の表現のために駆使するようになりました。
国字というものも作りますが、それ以上に行われたのが漢字を用いて自由に表現する宛字であったようです。
そして江戸時代に至り宛字文化が満開となりました。
平民が広く文書を読み書きするようになったために、さらに宛字を使うことが増えました。
これは明治20年頃までは続くのですが、その後急激に終焉することになります。
その後はヨーロッパ語をカタカナで借りることが多くなるのですが、意味は取りづらくなってしまったようです。