爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「地形と歴史で読み解く 鉄道と街道の深い関係」内田宗治著

東京と近郊の鉄道路線は、地下鉄を除けば割と整然と配置されているようにも感じていましたが、その歴史はそう単純なものではなかったようです。

さらに、山手は実際にはかなりの高低差があり今のように土木工事の大型機械が普及しているならともかく、人力で作業を進めなければならなかった初期にはどこに鉄道を通すかということも大きな問題であったようです。

 

この本では旅行ジャーナリストの著者が、豊富な資料と細かい地形図をもとに、東京近郊の鉄道がどのように計画され建設されてきたのかを説明します。

 

明治5年、日本で初めての鉄道が新橋と横浜の間を走り始めました。

しかしその後の鉄道の発展はそれほど順調であったわけではなく、遅れがちなものでした。

また中央線が旧街道と離れているのは、街道沿いの宿場町が鉄道を通すことに反対したからだという、「鉄道忌避伝説」というものがあります。

こういった話はここだけでなく各地に見られますが、実際にそのような反対運動があったかというとはっきりとした記録はあまり残っていません。

どうやら、初期には鉄道の都合だけで経路を選んで敷設していただけに過ぎないということだったようです。

 

このような明治時代後半までの初期の鉄道建設では、幹線鉄道が東西南北に一路線ずつ延びていくのみでした。

そしてその終着駅は今のように東京駅周辺まで到達しそこで相互に乗り換えるといったものではなく、新橋、飯田町、秋葉原錦糸町までだったのですが、これらのターミナルは「船着き場」であるという共通点がありました。

貨物輸送の便もあったのですが、それらの貨物はここで舟に積み替えられてその後の輸送を図るという都合がありました。

 

なお、この時期に東京内の重要路線として山手線が次々と建設されていきますが、いわゆる「海線区間」の田端から上野、東京を経て品川までの区間は当時の海岸沿いに通ったのに対し「山線区間」の品川から渋谷、新宿、池袋、田端まではかなりの山と谷が次々と現れるという区間でした。

山線区間には6つの峠があり、まだ人家も少なかった時代でしたがその経路策定はかなりの苦労があったようです。

 

その後、大正時代に入るとその後も私鉄として活動し続ける鉄道が開業していきます。

その特徴は、江戸時代から続く旧街道に沿って作られ、旧街道の輸送需要をそのまま取り込もうという動きだったということです。

東海道沿いには京浜電気軌道(現京急電鉄)、甲州街道沿いには京王電気軌道(現京王電鉄)、大山街道沿いには玉川電気鉄道(現東急玉川線)、川越街道には東上鉄道(現東武東上線)といった具合でした。

京急の駅を見ていくと、それが東海道の宿場と街道沿いの集落のすぐそばに配置されていることが明らかです。

これらの鉄道はその後も国有化されることなく運営が続けられました。

そこでは人員輸送だけでなく貨物輸送も重要であり、玉川電気鉄道京王電気軌道多摩川の砂利輸送、武蔵野鉄道(現西武池袋線)や東上鉄道の農産物、東武鉄道の生糸などの輸送も鉄道の重要な機能でした。

 

こういった、街道沿いの私鉄という性格から昭和に入るとまた鉄道の性格が転換します。

その代表格が、田園都市の開発とその住民の輸送を主とした東急電鉄です。

関東大震災の被害もあって、急激に住宅地の郊外移転が進みました。

その中で、高級住宅地をねらって建設された田園都市は成功し、それを追って各地に分譲地が作られるようになりました。

その住民の通勤のために西武線小田急線、東急線などの私鉄路線が次々と作られていきます。

 

鉄道開通の初期には駅が作られることを嫌ったために町から遠いところに作られたという伝説は聞いたことがありましたが、そうでもなかったということは興味深い話でした。