爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「会津落城 戊辰戦争最大の悲劇」星亮一著

一般に、戊辰戦争時の会津での戦いといえば、少年兵たちが自害した白虎隊の悲劇や、城下の戦いとなったときの婦女子の自害が有名で、会津を悲劇のヒーローと見る見方が多いようです。

 

しかし、歴史の動きをしっかりと見ていくと、幕府瓦解の時にあたり奥羽越列藩同盟の形成に会津藩の家老梶原平馬が主体的に活躍し、仙台藩の出兵と長岡藩の参戦を成し遂げたという成果が、会津の功績と言えるものでした。

ところが、実際に戦闘に入るとどこの戦場でも同盟側は敗北し、同盟は瓦解しました。

この責任の多くは会津藩にあったようです。

同盟が成っただけで安心したのか、情報集めの活動もほとんど無く、最新兵器の購入の動きも弱く、多くの指揮者は無能な者ばかりでした。

このせいで、会津盆地に敵兵が入り込むことすらすぐには若松城下に伝わらず、軍勢を眼の前にしてうろたえて自害するという人を多数出したとも言えます。

 

本書ではそのような会津藩の最後の戦いに至るまでの経過を非常に細密に描いています。

 

薩長を中心とする官軍の東北への侵攻は、越後、日光、白河から並行して進められました。

いずれの防御にも会津藩から将兵を送り込みましたが、白河口の守りに家老西郷頼母を派遣したのも間違いでした。

西郷には実戦経験もなく、それをもっとも重要な白河口に派遣したことも会津の失敗でした。

 

東北の守りとも言える各方面の守備を破られ、仙台藩はすでに戦意を喪失し逃亡しました。

その他の諸藩も降伏するものが相次ぎ、最後に会津だけが残りました。

官軍の会津攻めが始まるわけです。

会津に入るには七ヶ所もの道がありますが、いずれも山越えの峠道です。

その各所に防備隊を置いていましたが、官軍がどこに主力を持ってくるか、官軍側も論議が交錯したようです。

しかし、二本松を押さえたことが決め手となり、母成峠から侵攻するということになりました。

これに対し、会津側はその動きをまったく捉えることができず、結局峠を破られてもそのことすら会津に報せが届かないという状態でした。

そのため、官軍の軍勢が城下に迫って初めて分かったという体たらくになり、城下の混乱が激しいものとなりました。

多くの士族の家で婦女子や老人子供の自害と言うことが起きました。

これも、情報を取得し官軍の来襲を早く感知すれば避けられたものが多かったはずです。

 

官軍が城下に迫ったこの頃に、白虎隊の自決も起きました。

少年ばかりの白虎隊ですが、指揮者として隊長は居たもののはぐれてしまい、少年ばかりの行動となりました。

その装備も銃は中古品ばかりで使用に耐えず、ほとんど戦える状態ではありませんでした。

その結果、20名の隊員は飯盛山の上で自決ということになってしまいました。

 

しかし、かろうじて城内に入ることができた人々により、それから1ヶ月近い籠城戦が戦われます。

ほとんど食料や弾薬もない状態ですが、なかなか簡単には破ることができない堅城でした。

もし、十分な準備がされ多くの将兵を収容することができれば戦況はどうなったか分からないというものでした。

ここでも会津藩リーダーの人材難がひどかったと言えます。

 

その後、降伏が受け入れられますが、藩士はすべて罪人とされ、下北半島に流されるということになります。

また、会津藩の戦死者の遺体の収容も禁じられ、腐敗するままにされました。

ようやく占領軍の参謀であった近江膳所藩士の三宮耕庵という人物の働きで収容が認められたのが半年経ってからのことだったそうです。

 

会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書)

会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書)