第二次世界大戦終戦までの日本は大日本帝国として、内地に加え朝鮮、台湾の植民地、樺太千島、南洋群島の領土、勢力下においた満州国、軍事的占領下の中国や東南アジアを勢力下においていました。
しかし、それが1945年8月のポツダム宣言受諾からの敗戦で一気に崩壊していきました。
そこで何が起きたのか。
実は戦後の日本人は内地の状況だけを見るのに精一杯で、朝鮮や台湾など当時の支配下にあった地域のことすら考える余裕もなく、そこで起きた出来事すら考えることも少なかったようです。
辛うじて、そこに居た内地出身の軍人や民間人に降りかかった事態はまだ見聞きすることはあっても、それまでは同じ大日本帝国臣民であった人々の運命すら気にすることもありませんでした。
この本では、その時の各地の出来事を、東京、京城、台北、重慶・新京、南洋群島・樺太、そして「帝国崩壊と東アジア」の順に記していきます。
各地では日本人が過酷な運命にさらされただけでなく、現地の元日本帝国臣民や日本軍支配下の人々も多大な被害を受けました。
そこには日本の責任だけでなく、連合国側のアメリカ、ソ連、イギリスなどの都合により大きく左右されたという事情も大きかったようです。
1945年7月17日からベルリン郊外のポツダムに米英ソの三国の首脳が集まり、ポツダム会談が開かれました。
その主な議題はドイツ敗戦後のヨーロッパの戦後処理であったのですが、同時にまだ戦い続けている唯一の敵国日本に対する最終処理方針も「少しだけ」話し合われました。
アメリカ代表のトルーマン大統領は、前任者ローズベルトの急死にともない急遽大統領に就任してわずか3か月で、それまでは副大統領ではあったもののローズベルトがほとんど一人ですべてを決していたため、戦争の戦後処理などはまったく考えても居ませんでした。
それを急に担当することになり強い思い入れも持ちながらポツダム会談に臨んだ彼の心の中は日本をどうするということよりソ連を押さえ込む方向に向いていました。
その結果、日本処理の方針はほぼトルーマンの独善で他の連合国の意見を入れることもなく、もちろん不在の中国の意志などは確認することすらありませんでした。
終戦前後の東京の政府や軍部のドタバタは他の本でも何度も扱われていることですが、貴重な時間を無駄にしたために原爆投下やソ連参戦を招いたということは言われています。
しかしそれはよく指摘されるような、指導層の優柔不断や自己保身が原因であったというよりは、明治憲法体制自体の持つ脆弱性のためだったようです。
すなわち、天皇大権を標榜しながら、実際には天皇の政治介入を排除し、天皇を輔弼することと定められた者が国家運営の責任を放棄してセクショナリズムの中で利益代表者として振る舞った場合に制度的に機能麻痺してしまうという根本的な欠陥がありました。
その欠陥が帝国崩壊というもっとも重要な時に噴出したのです。
朝鮮は終戦の際にソ連軍の侵攻を受けたためにもっとも混乱と惨劇が激しかったところです。
これはアメリカとソ連の密約でソ連参戦をうながしながら、その場になってアメリカがソ連参戦を抑えようとしたという矛盾を突いてソ連が激しく侵攻したためでもあります。
ソ連軍の略奪暴行があまりにも激しかったことから、ソ連軍は囚人を派遣したのではないかとも言われますが、実際には西部戦線でも戦った最精鋭の部隊でした。
彼らはドイツ相手にもやったような事を転戦した朝鮮でも行っただけでした。
解放後の政治体制を自主的に決定したいという人々の願いから、多くの指導者の名前が出てきたのですが、彼らの多くは暗殺され、結局は南はアメリカが李承晩、北はソ連が金日成を指導者に据えて体制を決定しました。
そしてそのまま朝鮮戦争へとなだれ込んでいきました。
台湾は朝鮮とは全く異なり、最初は平穏な情勢だったようです。
アメリカもここは中国の勢力下とすることで納得しており、米軍は進駐せずに中国軍の進出を待ちました。
しかし、進駐すべき中国国民党軍は共産党軍との戦いに力を取られなかなか台湾に来ることすらできませんでした。
そして、やってきた国民党軍は解放軍どころか強盗のような振る舞いをしました。
これを「犬が去ったら豚が来た」と台湾人は表現しました。
犬のようにうるさい日本人がいなくなったと思ったら、強欲で下品な国民党がやってきたということです。
そのために植民地時代の悪い印象は薄まりその後も対日感情は良いままとなりました。
日本の侵略から苦難が始まったのは事実ですが、日本敗戦後の米英ソなどの行為によりさらにこれらの地域に苦難が降り懸かったということです。
最後に著者が述べていますが、中国で日本軍が何をしたか、朝鮮や台湾で日本の植民地支配がどのようなものだったかを日本人が正しく理解すれば正しい歴史認識になるわけではありません。
同時代に日本、中国、朝鮮半島、台湾で何が起きたかをそれぞれ自身の歴史として、日本人も韓国人も中国人も台湾人も相互に知り合い、語り合うことが必要だということです。
そのためにこの本を書き、1945年8月15日を直視し、その日に何が起きてその結果どうなったかを知ってもらいたいと考えたとのことです。