中国や韓国との関係悪化の際には日本の歴史認識について先方から非難を受けるということが続いており、どうしても「歴史問題とは何なのか」ということを考えさせられます。
この本はかつての日本人にとっては「大東亜戦争」であったあの時代の戦争というものをどういう風に認識し、清算しようとしてきたのかを問い直します。
著者は外務省外交史料館や防衛庁防衛研修所歴史部などに勤務し、国の歴史事業などにも携わってきた方で、日本政府の姿勢や諸外国の意識についても詳しく、これを論じるには適任の方と思います。
敗戦から1か月後の1945年9月、当時の東久邇宮内閣は日本人の戦争犯罪人を裁く自主裁判を開くという構想を閣議決定しました。
東久邇宮首相は国民すべてが戦争責任を負うものという「国民総ざんげ論」がその基底にあったのですが、当時の重光外相はそれには与せず戦争時の政府・軍指導者に戦争責任が強く存するという考えでした。
その対立は埋まらず重光は退陣するのですが、しかし政府の責任清算の動きも結局は連合国側の国際軍事法廷開催の意向により停止させられます。
本書はその後の戦争の検証という歴史の流れを時代を追って述べていきます。
第1章 東京裁判と戦犯釈放
第2章 「戦争犠牲者」とは誰か 国家補償と戦争賠償
第3章 植民地帝国の正餐 請求権と国籍放棄
第4章 靖国神社問題の国際化
第5章 歴史教科書問題 イデオロギー論争から国際問題へ
第6章 戦後処理問題の終焉
第8章 「言葉」から「償い」へ 新たな「和解政策」の模索
第9章 中韓との歴史共同研究 何が違うのか
終章 「平和国家」と歴史問題
このようにほぼ戦後早期から現在に至るすべてを扱っていますので、その範囲は非常に広くまた詳細です。
というわけで、とても概要説明ということもできませんので、また例によって特に印象的な部分だけ抜き書きします。
戦後すぐにはアジア諸国への戦争賠償を行うというのが国際的な雰囲気だったのですが、徐々に日本の復興と政治的安定を優先するという方向に変わって行きました。
これはアメリカのアジア戦略の変化によるものでした。
占領初期にはアメリカの中でも戦争責任を第一に問い、日本による戦争賠償によりアジア諸国を復興させるというプランがあったのですが、東側諸国との緊張が高まることで日本の復興と安定のみがアメリカの関心事となり、賠償などは軽減することになりました。
これはドイツの状況とは大きく異なるところでした。
日本の植民地であった朝鮮と台湾が独立を果たしますが、そこにあった日本の財産は国有、民有の区別なくすべて放棄されました。
建前上はそれも相手方に対する賠償に充当させるということですが、それもあやふやになりました。
それに対する補償も全くされないままとなりました。
そこにはその後すぐに始まった朝鮮戦争、そして台湾の中華民国化という状況も関係してきました。
また朝鮮、台湾の住民の国籍問題も日本政府は責任を放棄したとも言えるものでした。
在日の朝鮮・台湾出身者も本人の意向に関わらず日本国籍を剥奪しました。
いちおう、希望があれば日本に帰化すれば良いと言った問題解決方法は提示しましたが、これは「問題の解決」ではなく「問題の解消」に過ぎません。
帰化ということで日本人化を進めるだけのことであり、在日の問題は決してなくなるわけではありませんでした。
さらにひどいのは、日本軍人・軍属として従軍した植民地出身者の処遇でした。
台湾出身の20万7000人の軍人・軍属のうち戦没者は約3万人、朝鮮出身では24万2000人で戦没者が2万2000人でしたが、日本国籍を奪うことで遺族援護法の対象から外すということをやりました。
彼らには日本人の場合とは異なり軍人恩給や遺族年金を受け取ることもできず放っておかれました。
ようやく1987年になり議員立法で一人当たり200万円の弔慰金を払うこととしましたが、あまりにも遅すぎ少なすぎの「解決」でした。
1980年代以降、靖国神社参拝問題と教科書問題が中国や韓国との間に大きな軋轢を生みます。
その中で日本政府は対外的な立場を定着させていきます。
それは「大東亜戦争は侵略戦争であるという国際的批判は厳粛に受け入れるが、自ら侵略戦争であるとは認めない」という、矛盾したものでした。
こうした矛盾を解消するための論法として「平和憲法の活用」ということを行います。
桜内義男外相(当時)は、侵略戦争という国際的批判を認識しながら、なぜ自ら侵略戦争と認めないのかという指摘に対し、
「平和憲法のもとで戦争というものを否定しているのであるから、お尋ねよりもっと超越した姿勢を取っておる」と答えています。
平和憲法を順守し、平和国家の道を歩むことが「過去の戦争」の清算につながるという論法が1950年代以降日本政府の一貫した答弁パターンでした。
しかし湾岸危機以降、この意識には徐々に積極的平和主義への変化というものが起きてきたようです。
しかしこのような戦争と平和に関する言説は戦後の日本では戦災被害者、引揚者、戦没者遺族などをも「戦争犠牲者」とすることで、いわば「総犠牲者意識」となりそれが平和主義を支えるのに大きな役割を果たしたと言えます。
こういった「平和国家論」の対する最大の批判者が沖縄だったということも事実です。
もっとも多くの犠牲を払わされた沖縄がその後も長くアメリカ軍支配のもとにおかれ苦難を強いられた。そして今でも基地負担の重さに苦しむということです。
今回の戦争だけでなくあらゆる戦争について国全体でその評価を共有するという、パブリック・メモリーが確立しているかどうか。
正誤の問題は別として、中国やドイツなどそういったパブリック・メモリーを作り上げている国もありますが、日本はまったく成立にはほど遠い状況でしょう。
公文書の管理すらまともにできず、管理法が成立したのも2011年になってからのことでした。
これは歴史をもとにして関係国との交渉を行うということを考えても日本側の資料が無いので相手国のものを使わざるを得ないということになり、不利になります。
今さらながら、それをきちんと行っていく努力が必要なのですが、日本政府にはその意欲すら全くないようです。
だれもがきちんと押さえておくべき、最低限の知識が詰まっているものでした。