第二次世界大戦後に、戦勝国が敗戦国の戦争犯罪を裁くという戦犯裁判を実施しました。
A級戦犯(平和に対する罪)、B級戦犯(通例の戦争犯罪)、C級戦犯(人道に対する罪)の3種に分けられ、日本では政府や軍部の指導者などのA級戦犯を裁いた東京裁判が有名ですが、戦場などでの戦争犯罪を裁いたBC級戦犯裁判と言うものも多くの人々を裁きました。
「私は貝になりたい」というドラマおよび映画が有名で、BC級戦犯というと連合軍の捕虜の虐殺、そして命令に従っただけの兵士が裁かれたといったイメージが大きくなったかと思いますが、東南アジアなどで広く戦争被害者の声を直接聞いて研究を重ねた著者が、戦犯裁判についても多くの資料を集めてまとめ、より真相に迫るものとしました。
しかし、A級戦犯を扱った東京裁判の場合はまだ資料も多く残っているのに対し、BC級戦犯裁判は連合国8カ国がそれぞれ実施したため、はっきりした資料が失われている例も多く、すでに実態がつかめなくなっているものも多いようです。
第二次世界大戦は、これまでの大きな戦争と比べてもはるかに一般市民を巻き込むことが多く、非戦闘員を虐殺したなどの行為が頻発しました。
また、日本の場合は捕虜の扱いがひどく、死者も多数になったということもあり、その実行者に対する戦犯裁判の例も非常に多いものとなりました。
これには、非戦闘員である一般市民を標的とした日本国内都市に対する無差別爆撃が戦争犯罪であるという認識から、その乗員を捕らえた場合に処刑したという例も見られ、双方の報復感情が高まったということも関係します。
その一方で、中国などでは一般住民もゲリラと見なして虐殺するという行為が頻発しましたが、こういった軍隊としての作戦行動では実行部隊の特定は難しく、戦犯として訴追された例が少なくなってしまいます。
シンガポール事件のように、占領地で虐殺を行った例ではある程度の期間はそこに駐屯していた部隊というものが特定可能なため、占領地での戦争犯罪事例は捕捉率が高かったそうです。
この場合、占領地の治安維持は憲兵部隊が担当していたため、憲兵の戦犯訴追というものが多くなりました。
誰が戦犯として捕らえられ、訴追されたか、というと、これは圧倒的に准士官・下士官と下級将校が多いようです。
兵長以下上等兵、一等兵などの一般兵士は実際にはほとんど戦犯とされることはなく、特に二等兵で死刑となったものは居なかったということで、連合国側の認識でも一般兵士は命令に従っただけと言うことが判っており特別な例以外では戦犯となっていません。
裁判を担当した8カ国というのは、イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、フィリピン、中国、フランスとソ連ですが、それぞれの国土と植民地での戦争犯罪を裁きました。
その状況により、各国で大きく裁判の様態も違います。
イギリスは植民地での住民虐殺などを多く扱いました。
一方、アメリカはほとんど植民地を持っていなかったために、アメリカ軍兵士の捕虜に対する虐待、虐殺などを裁いた例が多くなりました。
中国は自国内で多数の住民虐殺などがあったのですが、ちょうどこれらの戦犯裁判を実施している時期が、共産軍と中華民国政府軍が内戦を激化させている時期と重なったため、旧日本軍の軍人を取り込む必要があり、どちらの側でも戦犯の追求は緩く、戦犯裁判も厳しい判決は少なかったようです。
日本の旧植民地の朝鮮、台湾の出身者は、下級兵士や軍属として日本軍に従軍しており、戦犯として捕らえられ訴追された人々も多数に上りました。
しかし、日本が1952年に独立を回復したとき、朝鮮人や台湾人から一方的に日本国籍を剥奪しました。
ところが、朝鮮人らで戦犯として服役していた人々は、刑が課せられた時点では日本人であったとして刑の執行はそのまま継続しました。
しかも、日本人では無くなったとして、軍人恩給などの支給は打ち切られました。
日本人ではなくなったとして、援助を拒否し、戦犯としての罪だけは押し付けるという、非常に卑劣な政策を取ったことになります。
このように、BC級戦犯裁判というものは、戦争における残虐行為を裁くと言うことでは一定の意味を持っていましたが、戦争犯罪を問われたのが敗戦国だけであり、アメリカなどの多くの残虐行為はまったく取り上げられなかったという不正な点はあります。
また、上級の者が部下に責任を押し付け自らは罪を免れたと言う事例や、逆に部下が勝手にやった犯罪の責任を監督者が知らないまま押し付けられたということもありました。
そのため、日本人の多くはこの戦犯裁判を単なる勝者の恣意と見ました。
しかし、もしもこの戦犯裁判が無かったら、アジアの各地で降伏した日本軍将兵に大して大規模な報復が起きていた可能性もあります。
終戦後の早い時期に連合軍が戦犯裁判実施の意志を強固に示したために、それらが押さえられたと言うこともあるようです。
また、不十分ながらも戦争犯罪を国際社会が裁いたということは、平和に対する意志を明らかにしたということにはなったようです。
ジュネーブ条約などの取り決めへの道が開かれたと言えるようです。
また、日本に関する戦争犯罪糾弾は、戦争が行なわれた地域のものだけであり、植民地はその対象から外されました。
朝鮮や台湾での行為はまったく取り上げられていません。
これが現在まで尾を引いている問題の原因なのかもしれません。