孟嘗君田文の物語も最後、壮年期からを描きます。
なお、この辺りからの田文については他の史書や思想家の書にも描かれることが多くなり、有名な鶏鳴狗盗や長鋏帰らんかの挿話などあちこちで目にするものですが、かえってそれが宮城谷さんの創作意欲を少々妨げたのか、これまでほどの活き活きとした活躍が見られないかもしれません。
田文は30歳となりました。
洛芭を妻にという希望は持っているのですが、洛芭が秦に向かったその時に商鞅(公孫鞅)が新たな王に討たれるという事件に遭遇し、逃れたものの我が子を見失ったまま周の白圭のもとに身を寄せていたのでした。
また、父の田嬰も洛芭の身の上は知っており、旧斉王家の血筋であるということから、それを娶ることは田氏一族としてはできないと反対していました。
そこに周の王族の西周家から縁談が舞い込みます。
気の進まぬ田文ですが断ることもできずに向かいますが、そこに居たのは洛芭でした。
周で大きな商人となった白圭は西周家に手を回しその養女として縁談を進めたのでした。
計られたと知った田嬰ですが、西周家との関係を悪くすることもできずその結婚を認めました。
田嬰は斉の国の内ではあるものの都の臨淄から離れた薛を領地として賜り、そこを本拠地とすることとなります。
ただし、薛は宋や楚に近く、それらの国から侵攻されると真っ先に襲われる場所にあり、難しいところでした。
そして田文には近くの町を与えることとなりましたが、これは後継ぎとしての嫡子からは外すことを意味していました。
その町が嘗という名であり、そこから田文の呼び名として孟嘗君と言われるようになります。
その頃、一時は田文の親代わりとして育て、その後は指導もしてきた孫臏が亡くなります。
その遺言として田文に与えられたのは、「鈞台はそこにはない」というものでした。
それを心に刻んだ田文は諸国を回る旅に出ます。
田文が楚を訪れ、屈原と語り合っていた頃、斉では田嬰の兄の威王が亡くなり宣王が位につきます。しかし宣王はかねてから鄒忌を重んじており、田嬰は邪魔とばかりに領地の薛に帰るよう強要します。
その王と田嬰の不仲を好機として襲い掛かったのが隣国の宋でした。
薛は危うい事態となります。
しかし田嬰の食客であった貌弁が宣王を必死で説得し斉の軍を出させることでなんとか救うことができました。
田文はその後衛の国、さらに魏の国を歴訪します。
そして魏の国でその宰相犀首から魏の宰相の座を譲るという願いを聞かされます。
魏は王が代わり若い襄王となっていて、凡庸なその王では魏の国は危ういと思い、すでに高名となりつつある田文を迎えようとしたのでした。
そこで田文は五年と限ってその職を受けることとします。
田文の政治は魏の国にしばしの平安をもたらすのですが、やがて職を辞し斉の国に帰ります。
しかし斉王の田文に対する不信は弱まることはなく政治に関わらせることないままとなります。
それを見越した秦は田文を招き政治を任せようとします。
そんなことをすれば斉が国力を落とし秦が上回ることになるということも分からず、ただ田文の世評が高いことを妬むばかりの斉王はそれを許します。
秦は虎狼の国であり危険すぎるとして食客たちはそれをとどめようとしますが、その時に蘇秦の弟蘇代が引いた説話が木の人形、泥の人形というものです。
しかし田文はそれを聞かず秦に向けて出発します。
秦王は田文を宰相に任じようとしますが、それを危険視した楼緩は秦王にそれを止めさせかえって田文を殺すように進言します。
それと察した田文はすぐに逃れようとしますが、厳しい監視で果たせません。
秦王の愛妾に頼もうとしますが、孤白裘という宝物をくれなければ嫌だと言われます。
それは持参したものの既に秦王に献上したもの、それをどうにか手に入れるために活躍したのが狗盗すなわち犬のような扮装で盗みをする食客でした。
それを愛妾に献じると秦王を説得ししばしの間監視が弱まります。
その隙に逃げ出した田文一行ですが、国境の函谷関に着いた時にはまだ真夜中。
関所の扉は閉まっていますが追手が迫ります。
そこで鶏の鳴き声を真似をするのが巧みな食客が鳴き、それに関所の鶏たちも釣られて鳴き始め、朝が来たと勘違いした役人たちは関を開け辛くも逃げられたというものです。
斉に戻ってからも斉王は田文を重用しようとはしませんでしたが、自領の薛に半独立を保ちました。
その頃の話が馮諼の挿話です。
食客として受け入れたものの、大した能力もなさそうだったので最下位の待遇にしたところ「長鋏帰らんか、食事をするのに魚もない」と歌ったというものです。
そして最上位の待遇とした彼が、住民に貸し付けた金を取りたてる役を引き受け、その借用書を焼き捨てて人々の信頼を勝ち取るというもので、これも説話として広く知られています。
宮城谷さんはこの馮諼がかつて秦の商鞅の乱の時に洛芭と生き別れた田文の実子であるとしそれを匂わせる展開としています。
あとがきに宮城谷さん自身が書いているように、孟嘗君は有名ではあるもののその実態がよく分からない人物です。
史記や戦国策を始め、当時の有力資料にあちこちに出現しているものの、正確なところがよく分かりません。
そもそも斉王との関係もあいまいです。
父親の田嬰は斉王の弟ですが、その王が宣王であるというのが史記の記述ですが、どうもそれでは時代が合わない。宣王の父の威王が田嬰の兄とすると合うようで、この本でもその解釈で書いています。
なお白圭を田文の養父としたのは宮城谷さんの創作のようですが、この部分の方がよくできていたようです。
最初の発表は新聞小説だったのですが、読者からは白圭の活躍が大人気だったそうです。
