爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

父の事、父の誕生日にあたり

10月17日は亡父の誕生日、もう祝う人も居なくなりましたが、やはりこの日になると思い出します。

 

父の生きている間にその人生の思い出について聞かされたことはあまりなく、かなり大変なこともあったようですが、はっきりしません。

それでも母や従兄から聞いた話なども参考に再構成しておきたいと思います。

 

なお、このブログでは自分の名前も非公表にはしていますが、父や祖父の名前など隠していると書きづらいので、その辺のところは本名を使います。

もうそれで分かる人もほとんど残ってはいません。

 

父、博は大正4年(1915年)10月17日に長野県下伊那郡に産まれました。

父親は儀一、母親はなみ、儀一はそこの出身ですが仕事で岐阜に行き、そこでなみと結婚しましたが、その時期には長野に帰っていたようです。

産まれた時に名付けをする際、親戚一同寄り合って話をし、「儀一の息子だから儀太郎にすべえ」となりかけたが「それじゃ古臭いで、博がよかろう」となったというのは正式な話では無いようです。

 

博の祖父の代までは大きな地主だったということですが、だんだんと資産を失いました。

博の幼い頃はまだ財産も残っていたのか、幼稚園まで人力車で通ったなどと言う話もありますが、それも夢物語となったようです。

資産も亡くなれば祖父の仕事次第と言うことになり、長野を離れました。

岐阜にも住んでいたようで、父の出身中学は岐阜中でした。

その後、和歌山の高等商業に入り、卒業したようです。

 

和歌山高等商業は現在の和歌山大学経済学部の前身ということですが、当時は専門学校で卒業すれば商社などに就職するというコースでした。

父は商社ではなく全国組織の団体の管理部門に就職したようです。

しかし時期がちょうど戦争となり、父も少し遅れて徴兵され入隊しました。

そこが千葉鉄道二連隊というところでした。(この辺の事情はウィキペディアで調べるとかなり違うようですが、父の話を元に書いておきます)

鉄道第一連隊は海外に派兵され、中国やインドシナで鉄道建設にあたり多くの将兵が戦死したのですが、父の連隊はもはや海外に出たくても出られず、国内をあちこち動いている間に終戦となったということです。

 

終戦後は元の団体に戻りそこでずっと仕事を続けました。

 

その団体は農林水産業の資材販売といったことをやっており、北海道から名古屋、福岡と転勤を繰り返しましたが、定年近くなってようやく東京に戻りました。

最後は東京本所の総務課長ということで、その後もそこのOB会の世話などをかなり年取るまでやっていました。

その団体の中ではかなり活躍した方だったのでしょうが、私が大学卒業時にそこに入所するのはどうだろうと相談したところ、「あんなところはハッタリばかり強い奴が偉くなるような所だからよせ」と言われました。

会社のことも息子のこともよく見抜いていたということでしょう。

 

定年間近に東京勤務となると、すぐに以前から準備していた宅地への家の建築に取り掛かりました。

それが茅ヶ崎に今も弟が住んでいるところです。

私が小学6年の時に家が完成し、移り住みました。

父はそこで亡くなるまでの40年弱を過ごしました。

 

茅ヶ崎に移ったすぐ後に、父は近くの剣道の道場に通うようになりました。

若い頃には当時の学生はすべて柔道か剣道を習うことになっていたとはいえ、それから40年以上経って再び剣道を始めるというのはすごいことだと思いました。

週に何度か道場に通って練習をする以外にも、家の庭に材木を立ててその上に人の頭ほどの高さに球のようなものを付け、そこに竹刀を打ち込むという練習を毎朝毎晩何十回も繰り返していました。

その甲斐あってか、段位もどんどんと進み、最終的には練士六段にまで昇りました。

あの思い込んだら集中してやり遂げるというところは、息子には全然伝わっていません。

それでも遺品として父の使っていた居合道用の模擬刀だけは我が家に持ち帰り飾っています。

 

80代までは若々しく、実年齢より10歳以上は若く見えるなどと言われていましたが、さすがに90の声を聞くとめっきりと衰えてしまいました。

最後は病院で息を引き取ったのですが、心臓だけは強かったようで、危篤という連絡を受けて九州から急遽帰郷したものの、1週間以上もそのままの状態で、ようやく亡くなったのが92歳の8月でした。

父の生まれた大正時代初めの頃はまだ自動車や電気すらほとんど田舎では普及もしていない時代でしたが、亡くなった平成時代はバブルもはじけて不況の只中でした。

その激動の時代を力強く生き抜いてきたと言う一生だったのでしょう。

 

まあ、かなり省略しましたが、全部を書いてしまうと一冊の本になってしまうので、こんなところです。