歴史には「清らかな神話」と「暗黒の恥部」が必ずセットで存在します。
明治以降の日本史を見ても「坂の上の雲を目指した清く美しい時代」と「愚昧な指導者によって無謀な戦争に突き進んだ暗黒の時代」とがきれいに区別できるわけではありません。
そのような観点から、「暗黒の恥部」の方を探っていくという企画を日本経済新聞で実施し連載したそうですが、それに若干筆を加えて一冊の本としました。
著者の井上さんは日経新聞社会部の記者から編集委員となっているということですが、この企画はかなり危険な挑戦だったようです。
対象とする年代は明治維新直後から平成時代のイラク人質事件まで、日本の暗い面が次々と出てきます。
特に著者が新聞記者であるためか、新聞などのメディアの関わる暗部というものが強調されていることが多いようです。
戦争と新聞の関係というのも暗黒だらけのようで、太平洋戦争敗戦の折りには暗愚な軍部を一転して罵倒した新聞はその直前までは軍部を抑えるどころか率先して鼓舞することで売り上げを伸ばしていました。
それを真摯に反省した新聞人は数えるほどしかいなかったようです。
取り上げられているものは、戦争、政治から風俗や学説まで、幅広いものです。
維新直後の廃仏毀釈運動では寺院の破壊、仏像などの廃棄が相次いだのですが、寺院関係だけに止まらず封建的な事物は廃棄という運動に拡大し、各地で城の破壊も相次ぎました。
興福寺の五重塔は25円で売却され金具だけを取るために焼却されるところでしたが、住民の反対で中止になりました。
姫路城はわずか100円で払い下げられたのですが、取り壊しの費用が多額だったために工事に取り掛かれずそのまま放置されたので残ったのでした。
1890年に教育勅語が発布され、その後各地の学校に天皇の写真である御真影というものが配布されました。
しかし学校が火災となった場合、教員が御真影を守ろうとして殉職する事件が続発しました。
そこには新聞がそれを美談として報じた影響が強かったようです。
関東大震災では41人の教師が殉職したのですが、そのうち9人は御真影のために亡くなったと言われています。
その後、御真影は校舎外の頑丈な「奉安殿」で管理するようになります。
これは名目上は御真影を保護するためでしたが、実際には学校長や教員の殉職を防ぐためでした。
満州事変から日中戦争へと広がり、それが太平洋戦争へとつながっていくのですが、二中戦争に至る過程では民間人の虐殺事件などが起こり、それを報道する新聞が煽り立てるということが日中双方で起こります。
これは双方ともにある程度の民主化が進み、報道が普及してきたという事情が強く影響していました。
それによりかえって軍部も煽られるように戦争へと進んで行ったとも言えます。
民主化は必ずしも平和的なものではなく、対外的に強硬化する危険性が強いものです。
1940年は日中戦争の4年目、そしてナチスドイツの躍進に目をくらまされて三国同盟を締結した年でした。
それはちょうど皇紀2600年にあたるということで、国民の間でも聖地観光や各種行事などの「祝祭消費」に沸き立ちました。
そのような行事には新聞社も大いに関わり、国や県などとの協賛事業として皇室史跡整備拡張の勤労奉仕などを推進しました。
さらにメディアのヒトラー礼賛も激しいもので、三国同盟締結も国民的に称揚され、支持されました。
1964年にアジア初のオリンピックが東京で開かれたのですが、それまでの東京の都市環境はひどいものでした。
交通は危機的状況、上水道下水道もほとんど整備が進まず、ゴミ問題も最悪というものでした。
これをオリンピック開催を名目に一気に改善しようとしました。
総投資額は約1兆円(現在の33兆円ほど)ですが、そのうち大会の直接費用はわずか1%で、首都高などの道路整備、下水道整備、新幹線といったインフラ整備にほとんどが使われました。
それらに集中して投資したために、それ以外の面が立ち遅れゆがみが拡大します。
それでも間に合わず、大会期間中はし尿汲み取りは行わず、ゴミ収集は早朝に行うというドタバタぶりだったようです。
やれやれ、これが真実かという思いもしますが、日本人らしいやとも思えます。