爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「言論統制というビジネス」里見脩著

現代はすでに「自主規制」という名の統制状態であるという気もしていますが、この本の「言論統制」は現代を直接には扱っておらず、その描いている時代は太平洋戦争に至る頃と戦争中、そして戦後すぐの頃までの話です。

 

その当時の「言論」のほぼすべては新聞でした。

したがって、ここで描かれているものは新聞と通信社などです。

 

太平洋戦争に敗れた後、新聞はその責任をすべて軍部と政府に押し付け、自らは言論統制を強いられた被害者かのように装いました。

しかし、開戦当時の戦勝報道など、とても押し付けられたなどとは言えるものではなく、自ら進んで国策にすり寄った報道姿勢で売り上げを伸ばしていったのは事実のようです。

 

さらに国民もそのような虚偽の報道に踊らされた被害者であるかのように言われることもあります。

しかしその報道を喜んで選んだのも国民の多数である以上、単なる被害者とは言えないでしょう。

 

戦争に至る時期までは、日本の新聞の発行状況というものは混乱でしかありませんでした。

昭和初期には全国で14000弱の新聞が発行され、熾烈な競争を繰り広げていました。

その頃にはさらに「全国紙」と言われる大資本の新聞も勢力を伸ばしていました。

現在ではそれは朝日、毎日、読売、日経、産経の5紙を指しますが、戦前期には朝日、毎日、読売の3紙でした。

先行する朝日、毎日を追って読売がぐんぐんと伸ばし逆転しようかという勢いでした。

また地方紙もそれ以前の政党支持による色分けがまだ残っており、それぞれが販売競争を戦っていました。

 

全国紙はニュースの発掘、配信も自前で賄える態勢を整えていきましたが、地方紙はその力もなかったため、ニュース配信は通信社に頼らざるを得ませんでした。

明治期には多数の通信社が存在したのですが、大正以降には大手2社に絞られました。

帝国通信社(帝通)と日本電報通信社(電通)でした。

電通は今でも広告代理店として栄えていますが、もともとは通信社兼広告代理業を営んでいました。

しかしその後政府の息のかかった通信社として同盟通信社が誕生し、それを核として新聞社まで巻き込んで統制する体制が築かれていくのですが、その中心として暗躍したのが古野伊之助という人物でした。

この本もその古野の活動を主として書かれていきます。

 

中国での戦争状態が激化するに従い、全国紙3紙は多数の特派員を軍に同行させ取材し、特報として発行する体制を整えていきます。

しかし地方紙はそのようなニュースを得ることは難しく、その差が大きくなっていきました。

そのため満州国に特に通信社を立ち上げそこからのニュース配信を国策として行うこととして設立されたのが満州国通信社でした。

その設立は関東軍の主導によるものでしたが、当時は聯合通信社の支配人であった古野が大きく関与していきました。

満州国通信社は電通との競争もあり解体の危機を迎えるのですが、国を巻き込んだ勢力争いの末にすべて統合した通信社とするように暗躍したのが古野でした。

 

その後、中国大陸における取材競争には日本国内新聞社も加わり繰り広げられます。

軍部への食い込みが強いほど取材できるとあって各社から軍部への協力体制も強化されていきます。

軍隊への「兵器献納運動」というものも各社競って行われ、朝日が航空機90機、高射砲、戦車を献納すれば毎日、読売も献金運動などを行っていきます。

 

全面戦争が近づくにつれ、内閣情報局を中心に新聞界の統制強化が図られます。

いまだに多数の新聞社が乱立していた状況を整理するために、強制的に新聞社の統合を進めようとします。

その当時は幾分かは減少していたとはいえ、前代の政党間の競争を引きずったままの新聞社競争が絶えていなかったために、統合はかなり難航したのですが、最後には政府だけでなく軍部の脅迫も使って1県1紙が推し進められます。

現在でもこの名残が各地に多く残っており、各県に1つの新聞のみという地方がかなりありますが、それはこの統合の結果でした。

 

戦争劇化とともに新聞用紙の確保も難しくなり、新聞社の空襲被災も相次ぎ、新聞発行自体も難しくなっていきますが、それでも何とか発行は続けられました。

敗戦のあとも新聞社は継続しますが、先に敗戦したドイツでは新聞社や通信社などはすべて廃止とさせられていたため、日本もそうなるかと怖れられていました。

しかし、「すべては国策通信社の同盟が悪者」とすることで他の新聞社は存続しました。

GHQも敗戦直前に原爆批判報道を行った同盟に対する反感が強く、それが日本国内の情勢ともうまく合致して同盟だけを潰し、古野を戦犯追及するということで収まりました

古野は結局は戦犯として起訴されることはなかったのですが、その後は内閣閣僚や政治家としての出馬を要請されることはあっても固辞し、表舞台には立つことはなかったそうです。

 

戦時中に猛威を奮ったかのような「言論統制」ですが、現在でも決してそれと無縁な状況とは言えないようです。

一県一紙という体制は多くの地方でそのまま存続しています。

また記者クラブという体制もそのまま続いており問題化しています。

与えられるニュースをそのまま記事に書くというサラリーマン記者がそのまま存在しているのではないか。

しかし戦時中のメディアの状況はまだまだ不明なところが多いそうです。

さらなる研究を期待したいということです。