爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

脱エネルギー社会では科学はどうなるのか。

化石燃料を使わないようにという、脱炭素化という動きは、その前提に疑問があるとはいえ、私の言う「脱エネルギー化」と一見似ているようには見えます。

しかし、世間の言う「脱炭素化」ではエネルギー使用はこれまで以上に使用量を増やすように考えているようで、その描く姿にはかなり疑問を感じます。

 

これはまあ、そのうちに幻想に過ぎないものは消えるでしょうから、いずれは脱エネルギー社会と言う本来進むべき方向に収束されていくものと、楽観しておきましょう。

 

さて、これまでも「化石燃料の使用は減らそう」などと言う話が出ると「江戸時代以前の生活に戻せと言うのか」という反発が出たものですし、これからもそうでしょう。

江戸時代以前といってもわずか数代前の先祖の生活を、そこまで否定しなくても良いのではないかと言う思いもありますが、そこは一応おいておきます。

 

「江戸時代以前と同じ」にはなりようがないのは、「現代科学」の存在によるものです。

この知識や成果を忘れることも捨てることもできません。

ただし、「エネルギーはほとんど使えない」ことも避けられません。

 

そこで、「エネルギーを使えない科学はどういうものになるのか」を考えてみたいと思います。

 ただし、このようになったとしても、食料を加熱するなどのエネルギーは無ければ人間は生存できませんので、それは何とかして確保できるものとします。

そんな保証もないのですが。

 

 

「基礎科学の成果」というものは無くなるわけではありません。

ただしそれを使おうとするとすぐにエネルギーの制限がかかってしまいます。

 

しかし「科学技術」と呼ばれるものの多くはエネルギーがあってこそのものが多いということは容易に理解できるでしょう。

その中でも、大きくエネルギーに依存しているものとそれほどでもないものがありそうです。

 

まず、誰が見てもエネルギー高消費産業といったものは存続は不可能でしょう。

運輸交通関係の、自動車、航空機、船舶といったものが使えなくなります。

ということは、現代の高速大量輸送に支えられた産業社会構造もこのままのわけはありません。

また、電力大量使用の家庭やオフィスでの電気機器のようなものもほとんどが使用不能です。

ただし、これも最低限のものは確保せざるを得ず、上記のように食料の調理関係は何とかしなければなりません。

 薪を使うなどと言う夢物語は不可能ですので、その程度は電力を必要とします。

 

一つ一つは大してエネルギーを使っていないように見えても全体としては大量消費しているものがあります。

通信・放送、IT関連のものは使用時のそれぞれの消費エネルギーは少ないようですが、総量としては大量になり、さらにその製造には大きなエネルギー使用を避けられませんので、これも存続が危うくなります。

となると、現代のIT社会そのものの運用も難しくなるということになるでしょう。

これで、現代の科学の華ともいえる部分が結局は使用不能となることが分かります。

 

せめて何らかの放送事業程度は無いと淋しい社会になりますが、電気もガソリンもほとんど使わない社会で何ができるか、考えてもほぼ無理な話になりそうです。

 

衣類などもほとんどが化学繊維に頼っていることを考えると、エネルギーとして使用していなくても石油使用を止めれば今のままではいることはできません。

すべてが農業に戻ってくるということになるわけですが、食料すら確保することが難しければ木綿や絹、そして羊毛用の羊の飼育用の飼料も栽培の余地があるのかどうか。

古着などは見向きもされないような今の状況が変わるのは間違いないことでしょう。

 

こういったことを考えていくと、いかに今の社会がエネルギーに依存しているのかということが改めて痛感されます。

「エネルギーを使わなくなったら」と考えると、社会や生活のために現代科学が何ができるのか、「ほとんど何もできない」となりそうです。