「脱炭素化の切り札」という言葉が次々と使われています。
水素の話、SAFの話等々、何が「脱炭素化」なのかも怪しいものですが。
二酸化炭素温暖化から気候変動につながるという仮説がもはや真実のように横行しそれに反対することもできないかのようになっていますが、そこから出てきたのが「脱炭素化」すなわち化石燃料消費を減らしていくということであり、実際にはそのための方策とも言えないままの「切り札」が次々と現れてきます。
そんな「切り札」もほとんど何の役にも立つわけもなく、そのうちに消えていくのも間違いありません。
いや、多少とはいえその研究には研究費が付き、しばらくは研究者たちが従事できるということはあります。
そしてそのうちに金が尽きると一片の「研究報告書」をまとめて何もなかったかのようにチーム解散ということになるでしょう。
それでは「脱炭素化」というものは「切り札」も無いまま失敗するしかないのでしょうか。
いやいや、そんなことはありません。
最も効果的で間違いない「脱炭素化」は実際に化石燃料の消費を減らす「脱エネルギー社会の構築」により可能です。
これまでもこのブログの「エネルギー文明論」の中で、「エネルギー使用半減の策」や「エネルギー使用10分の1の策」を提示してきました。
まあおそらく読んだ方もほとんどいないでしょうし、読んでもほぼ全員が理解もできなかったとは思います。
しかし私は今でも信じていますが、「脱炭素化」のためには今の社会の構造を変えて「脱エネルギー社会」にするしかないということです。
それを考える上で必要なことが、現代社会は「エネルギー依存文明」であることをしっかりと認識すること。
そしてその「エネルギー」のほとんどは「化石燃料エネルギー」であること、つまり現代文明は「化石燃料依存文明」だということを自覚しなければなりません。
これができないために、形だけ化石燃料を使わないかのような「代替エネルギー」なら大丈夫だと錯覚してそれを進めていますが、それで実際に化石燃料消費量は全く減っていないという事態になっています。
化石燃料依存文明というのは資本主義とも親和性が高いようで、その活用法が劣っていた共産主義などを打ち破り資本主義全盛となりました。
そのためか、それに完全に取り込まれた社会はエネルギー依存を抑えるということもできず(経済成長に差し支えるなどと言って)います。
したがって、「脱エネルギー文明化」は「脱資本主義」でもあります。
なお資本主義もちょっと怪しくなり権威主義国家が隆盛となるようですが、それはエネルギーとは関係ないのでここでは触れません。
現代人はエネルギー依存文明にどっぷりと浸かってしまっているため、そこから抜け出すことなど全く想像もできないことなのでしょう。
そのために脱エネルギーが必要と言われても受け入れられず、口当たりのよい「代替エネルギー」という言葉に苦も無く引っ掛かってしまいます。
そのような都合の良い代替エネルギーなどありません。
人間にとって最高のエネルギーが化石燃料でした。
エネルギー密度が非常に高いためコンパクトで可搬性が高く、燃料タンクに入れて運んでも十分な人と荷物が積める車体を構成することがが可能です。(EVの惨めな車体を見ればすぐわかると思います)
基本的には燃やしてエネルギーを得ることができるため、特殊な資源を必要とすることが少ないというのも利点でしょう。
レアメタルの塊のような電気自動車、太陽光発電装置を見ればわかることです。
しかもほとんど炭化水素以外を含まないため、「燃えたら無くなる」という利点もあります。(なお多少は残渣が残り大気水質を汚染しますが、他と比べればマシの方でしょう)
これがどんなに優れた点かということは、再生エネルギーの太陽光発電や風力発電、水力発電がいかに運転停止後にガラクタを残すかを見る必要があります。
そのうちに日本を含め世界中が使用後の再生エネルギー発電装置で埋まることになります。
しかしその化石燃料の最大の弱点が「そのうちに無くなる」ことです。
シェールオイルなどの開発技術が進み、「これでエネルギー問題は解決」などと早とちりをする人も出るほどですが、これも実際には資源を最後まで絞り出す技術ができただけであり、結局はそのうちに無くなるということになります。少しだけ時を先送りしただけでしょう。
もちろん「自分が生きているだけ大丈夫ならよい」という人にとっては技術の最終解決のように思えるのかもしれませんが、とても「持続可能」、すなわち子々孫々まで大丈夫かということにはなり得ません。
そのため、気候変動などは考えるまでもなく、「化石燃料使用を徐々に止めていく」必要があるのです。
それは早ければ早いほど文明の崩壊の危険性を除くことができます。
計画的に文明の形を変えていく、それが知恵のある人類のやるべきことなのです。