爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

自動車社会とは何か、人類は自動車と心中するつもりか。その2

その1で下記の目次の1から3まで書きましたので、このその2では4,5です。

 

1,自動車社会とは、「自動車主義社会」か

2,自動車によって作り変えられた世界

3,自動車の功罪、「功」なんてあるかどうか知らないが。

4,自動車に未来はあるか。

5,自動車無き社会の作り方。

 

4,自動車に未来はあるか。

ありません。終わり。

ではちょっと不愛想すぎるので、解説します。

 

自動車とは石油類を燃料とする内燃機関を利用するということが最大の利点であり、それでここまでの繁栄を作り上げたのですが、その石油類などの化石燃料の利用ということが急に問題視されるようになりました。

それが「二酸化炭素温暖化対策としての脱炭素」です。

そんなおかしな理由を付けなくても、「化石燃料をそんなに浪費するのは止めましょう」であれば納得できるのですが。

 

まあしかし、「化石燃料を使うのは止めましょう」というのは正しい態度です。

数千万年以上もの太陽光からのエネルギーを変換する生物の光合成で作られ、貯蔵された化石燃料はこれ以上ないほどに貴重な資源ですが、それを本当につまらない目的のために浪費してしまい、すでに初期存在量の半分以上を使い果たしてしまいました。

ただしすぐに化石燃料使用を停止すると現代文明は即座に崩壊しますが、それでも徐々に減らしていくという姿勢は必要です。

 

ところが、それでは「現代自動車社会」=「自動車文明」は崩壊します。

そこでひねり出した解決策が電気自動車化、水素自動車化という方向です。

 

それで現代自動車社会は続けられるのでしょうか。

 

そこには多くの難関が横たわっています。

電気自動車自体は大して難しい原理が必要なものではなく、作るのに技術も要りません。

しかし、「ほとんど鉄だけで作ることができた」自動車というものの利点が電気自動車では無くなります。

大量の蓄電池を搭載し、それでモーターを回転させるということで、そこには多くのレアメタルが必要です。

すでに電気自動車は製品化され販売されていますが、それは非常に高価であることは歴然としています。

それはこういった貴重な資源が大量に使われていることが一因です。

さらに、このような資源に由来する高価格はこの先いくら電気自動車の生産量が増えても低下する要素はありません。

大量生産で劇的に価格が低下する大量生産効果というものは、このような資源に起因する問題は解決できないどころか、生産量が大量になればなるほど悪化するでしょう。

価格が高騰するだけならまだしも、必要量をまったく供給できなくなる恐れも強いものです。

 

しかもこういった蓄電池やモーターに必要な資源というものは、自動車だけでなく電力関係すべてに共通するものであり、今後はさらに供給難が激しくなるでしょう。

さらに今は電力というものが比較的安価に供給されるような感覚がありますが、今後はどんどんと価格高騰する可能性が強くなります。

「街角の充電ステーション」などと言うものが本当に普及するか。

その可能性は極めて低いものでしょう。

 

それでは「水素」はどうでしょうか。

水素がエネルギー源であるかのように宣伝されることもありますが、「エネルギー源」ではありません。

他からのエネルギーで水素として取り出し、それを燃料電池や水素エンジンで使うだけの「エネルギーキャリア」に過ぎません。

しかも大きな問題点は「非常に効率が悪い」ことです。

使用するエネルギーの一部しか使うことができません。

そのエネルギーとして、太陽光発電風力発電のようなものを使い、「グリーン水素」などと言って普及をもくろむものもいますが、コスト的にもエネルギー収支的にもまったく合うわけもありません。

「温暖化による気候変動」などと言って脅迫するしか、その普及を図ることはできないのです。

 

このように、電気自動車や水素自動車の未来は非常に暗いものです。

欧米日の先進国(一番早く崩壊するという意味でも先進)の中でのみ、無理やりそれに替えようとしていますが、上手くは行かないでしょう。

しかもその間に中国やインドを初めさらに続く途上国では平気で石油車を使い続けるでしょう。

そしてそれは石油が枯渇するまで続くわけです。

それが「自動車」の終焉であり、「自動車社会」の終わりとなります。

 

5,自動車無き社会の作り方

「作り方」なんて言わなくても、どうせそのうちに自動車は使えなくなるのですから、仕方なく何とかするのでしょうが、しかしよく考えていないと大混乱に陥るとともに、「悪賢い奴ら」ばかりが得をすることになるというのは、これまでの人類の歴史が示しています。

とにかく、「混乱こそが悪徳の栄える場」ですので、そういった状況をも喜ぶ連中が跋扈することでしょう。

 

それを避けるためにも、「自動車無き社会」の設計図を示し、それを整然と作り上げていく必要があります。

 

この方策については、これまでのこのブログの「エネルギー文明論」のグループに分類される記事の中で関連するものを何度か書いてきました。

 

脱エネルギー社会の構築に向けて(1) まず進めるべきは自動車社会の解体 - 爽風上々のブログ

エネルギー消費量半減のための社会改革 1 - 爽風上々のブログ

 

「脱エネルギー」のためにも一刻も早く「脱自動車」を進めるべきという意味で書いたのですが、もちろん「脱自動車社会」を目指す場合であっても同様のことになります。

ただし、「脱自動車」だけであれば貨物船の使用や鉄道利用は残すことになりますので、よりソフトな社会変化のみで可能となるかもしれません。

 

とは言っても、「自動車社会を脱する」というのは現代社会の大半を変えなければならず、多くの人々の職業も変えざるを得ません。

住居もそのままでは生活できなくなるでしょう。

結局はすべてを変える覚悟が必要となります。

 

まず考えるべきは、目指す社会の形はそれほど目新しいものではなく、つい100年ほど前には世界中がその社会だったとも言えます。

しかし、現在からかつての社会に戻すということは不可能でしょう。

全ての条件が変わってしまいました。

また科学技術のすべてを捨て去る必要もなく、エネルギーを使わないものであれば使用は可能です。

したがって、単に江戸時代や明治時代に戻るということではなく、全く違った社会の形を作る必要があります。

 

もちろん具体的なイメージがすぐに提示できるはずもありません。

しかし少なくとも食料は「本当に地産地消」であることが必要となるでしょう。

農林漁業や食品製造業により多くの勤労者が投入される必要があります。

 

そのような社会が本当に実現できるでしょうか。

それは想像すら難しいものかもしれません。

しかしそれを真剣に考えることができなければ、大混乱から大崩壊へと向かう社会を見ることになるのかもしれません。