爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「古代日中関係史」河上麻由子著

古代の歴史を振り返れば多くの人、文化、その他のものが中国から日本に渡ってきたのは間違いないことです。

その最初は大国にヘリ下り貴重な文物を下賜してもらったのでしょうが、いつの頃からか日本の国が隆盛に向かうとその関係も対等であることを目指したと言われています。

 

通説では、607年に最初に派遣された遣隋使が隋の煬帝に「日いずるところの天子、書を日没するところに天子に致す」と書かれており、そこには日中は対等という意識があったと言われています。

近代から太平洋戦争に至る時期には、それが聖徳太子顕彰の動きとも重なりました。

しかし敗戦後はそのような説はトーンダウンはしましたが、それでも基本的にはその主張を取り入れたものが社会に共有されているようです。

 

この点について、実際はどのようなものだったかを様々な資料を駆使して検証していきます。

 

具体的には対象は倭の五王と呼ばれる大王たちが中国江南の宋の国に使者を派遣した時代から、九世紀末の平安時代菅原道真の建議により遣唐使派遣計画が中止された頃までとします。

なお、日中交渉が主となりますが、その比較として他地域の国々と中国がどのように交渉をしてきたのかも検証しています。

 

倭の五王たちが使いを派遣したのは5世紀頃ですが、その最後の倭王武が派遣したのを最後に100年ほどは途切れます。

その間の記録が無いためによく分かりませんが、その頃の考古学的資料の考察から、自らを中華の中心と考える思想が日本にも芽生えたからではないかと考えた人もいました。

江田船山古墳や稲荷山古墳から出土した鉄剣ですが、そこには銘文が刻まれており、「ワカタケル大王が天下を治める」と読み取れます。

このように「天下」意識は中華意識から来るのではないかということです。

 

しかし、当時の大王周辺の官吏たちの漢文理解は低レベルであったようで、こういった銘文も渡来人により文章が作られていました。

そういった当時の中国人の「天下」の用法を調べていくと、多くは「実効支配領域」を指すもので、「広域の世界全体」を指すような使い方は少なかったということです。

つまり、いくら「天下を治める」と書かれていてもその意味は「領国を治めている」といった意味以上のものではなかったようです。

 

長らく分裂した国々の争乱が続いていた中国にようやく統一国家の隋が立ちました。

実はそれまでの南北朝時代北朝の諸王朝はかなり仏教を重要視していました。

そのため、それらの王朝から朝鮮半島の諸国など周辺国に仏教を伝える動きが強まり、それは日本に対しても同様でした。

 

581年に隋が建国された後、600年に第1回の遣隋使が派遣されます。

そして607年に再び遣隋使が小野妹子を使者として派遣されるのですが、そこで隋皇帝に送られた書状が有名な「日出処の天子」でした。

これは太平洋戦争前の国情からも「日出処」は日の出の勢い、「日没処」は斜陽、そしてどちらも天子という言葉を使ったことで対等を意識したとされてきました。

 

しかし、これまでも他の研究者により、「日出処」「日没処」は「大智度論」という仏教の経論に出典がある言葉で、単に東西を示したものに過ぎないことが論証されています。

 

「天子」については、本書で著者が新たに事例を検討し論証しました。

隋は北朝北周が廃仏をしたことに対し、仏教を推進したのですが、隋の最初の皇帝文帝は舎利塔建立事業を進めたために、「菩薩戒仏弟子皇帝」と自称するようになります。

こういった情勢は朝鮮半島高句麗百済新羅といった国々も熟知しており、この三国は隋に対して仏舎利の下賜を求めることで文帝の歓心を買うこともありました。

このことについては、百済高句麗などを通じて倭国にも伝わっていたはずであり、遣隋使を発する以前に倭国側も熟知していました。

その点を考慮して607年の遣隋使の隋での発言も見ると、「重ねて仏法を興した菩薩天子を拝したい」と言っています。

この天子という言葉は、中華思想の意味で使用されたというのが一般論の基礎ですが、実際はこれは金光明経に定義されているように、「仏法を広めよく衆生を教化する国王」という意味で使われ、倭国もその意味で書状に使ったものと考えられます。

 

その後、隋は滅び唐が代わって中国を支配するのですが、これは唐の側の事情もあり入貢を促したようです。

しかし倭国も国情が安定しない時期もありなかなか頻繁に遣唐使を送ることはできませんでした。

 

第7回遣唐使は701年に送られたのですが、その時は唐が一時的に廃され則天武后が周という国号に変えていた時期でした。

この時に遣唐使倭国の国号を「日本」と改めることを願い出て許可されました。

このこともかつては「太陽の昇るところを意味する日本を国号に用いたのは唐に対して対等あるいは優越を主張するためだった」と言われていたものです。

 

しかし、最近発見された中国国内にあった百済人の墓の墓誌によりその使用例も明らかになりました。

この墓誌には「日本」という言葉が百済を指すものとして用いられていました。

つまり、唐から見て東側という程度の意味で極東を指す一般的な表現にすぎなかったようです。

そのため、国号として日本を使いたいということは、唐を中心とする国際秩序に参加するという意志を表明したに過ぎないということです。

 

その後も天皇の地位が安定したことを示すかのように続けられた遣唐使ですが、838年に送られたものを最後に、894年に計画されたものは菅原道真により中止とされその後は行われることはありませんでした。

しかし、国としての事業は無かったものの私的に中国に渡るという人は僧を中心に数多くなります。

9世紀の東アジアには商人が登場し、彼らが船を使って交易を行うようになります。

その海商は初期は新羅人が多かったのですが、やがて唐人も増えてきます。

その船に乗せてもらうことで、中国に渡る僧侶たちが多数いました。

日本だけでなく諸国からも中国を目指す僧侶が多かったのですが、これらの「巡礼僧」を歓待しました。

唐の後を継ぐ五代の国々では巡礼僧に紫衣や大師号を与えるということがあったようです。

こういった行為は五代の皇帝たちにとっても唐の対外政策を継承しているということを示すいい機会でした。

 

日中関係という主題とは離れますが、大和朝廷天皇の血統維持ということに対する執着は非常に強かったということが示されています。

そのため、父方だけでなく母方も天皇家の血筋であることが正統な天皇後継者となるためには必須であると考えられていた時期もあり、豪族出身の母親から産まれた皇子の場合は正当な天皇とはなれないものでした。

その風習が完全に消えたのが藤原氏出身の皇后が誕生しその皇子が正統な天皇となってからだったそうです。

古代エジプトの王が近親結婚を繰り返したというのは有名な話ですが、兄弟ということは無いものの同様な風習が大和朝廷にも存在したということでしょう。

近親結婚に伴う遺伝的な問題がなかったとは言えないものだったのでしょう。