爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「中華を生んだ遊牧民」松下憲一著

中国には中華思想というものがあります。

しかしその「中華」という言葉が表すものは変化してきました。

漢代の「中華」と唐代の「中華」とはかなり異なるものです。

本書冒頭に掲載された、唐代の女楽士の練習風景を描いた「宮楽図」という絵は今は台北故宮博物院に収められているものですが、そこの事物を見ていくと様々な点に気づきます。

椅子に腰かけた女性たちがテーブルを囲んで琴や琵琶などの楽器を演奏しており、テーブルの下には犬がうずくまっています。

一見、典型的な中華の上流社会の風俗に見えます。

しかし、漢代の中華世界には無かったものが多数含まれています。

イスとテーブル、胡琵琶、ペットとしての犬、女性たちの化粧と服装。

こういったものが中華世界に流入してきたのは、実に五胡十六国と言われる隋唐時代に先行する時代でした。

その中心勢力でもあった、鮮卑拓跋部と言われる民族の歴史と活躍を見ていくことで、その時代に大きく変わっていった中国の様子も見ることができます。

なお、隋唐時代はこのような北方遊牧民の影響を受けているため、そこから様々な知識を受け取った日本も随所にそれが見られます。

均田制というものは北魏に始まったものですし、平城京平安京の構造も北魏の都洛陽の基本形から継承されたものです。

 

中国北方の遊牧民では匈奴が有名ですが、他にもいた諸民族は圧迫され移動しました。

その中で東方に移動したのが鮮卑でした。

そして匈奴が紀元一世紀頃に衰えた後に登場してきたのが鮮卑でした。

その民族はモンゴル系かトルコ系かということを聞く人がいますが、そのような民族ではなかったようで、様々な系統の人々が集まった政治的連合体が鮮卑だったようです。

そのため、鮮卑遊牧民族と呼ぶのは適当ではなく、「遊牧集団」というのがふさわしいようです。

 

後漢の滅亡以降、三国時代から晋にかけて中原が乱れると北方から遊牧民が徐々に南下し国を建てていきます。

そして晋が滅亡して国を建てたのが匈奴出身の劉淵であり、その後匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五つの胡族が次々と国を建てたのが五胡十六国時代でした。

中でも鮮卑の建てた北魏が最も栄えました。

 

北魏は五世紀の第三代太武帝の時に華北統一を果たし、中華世界の半分を手に入れました。

多くの漢人も仕えますが、遊牧民の文化や制度も残しながら漢化も進めます。

しかし風俗では重要な点も残しており、「子貴母死」という制度は中華には見られなかったものです。

これは皇帝の後継者として決定した皇子の生母は死ななければならないというもので、遊牧民が後継者の母方の影響力を削ぐために行ってきた風習でした。

また、レビレートと呼ばれるのは亡くなった皇帝の王妃などを後継者がそのまま受け継ぐというもので、中華の風習では全く受け入れられないものでした。

そのため、漢代に匈奴に嫁した王昭君などもそれに苦悩したのですが、これも厳しい生活を強いられていた遊牧民の生活から来たものでした。

 

北魏が安定したことを示そうと、国史編纂という事業が為されたのですが、それを実施した漢人の宰相崔浩などでした。

しかし出来上がった国書を石碑に刻み公開したところ鮮卑由来の王族や貴族たちが憤慨し国史事件というものが起き、崔浩たちは処刑されてしまいました。

文化的な衝突というものは頻発したようです。

 

その後、孝文帝の時には北魏が大きく「中華王朝」として変化していきました。

孝文帝の治世の時に均田制や三長制という、その後の中国王朝に長く受け継がれる制度も始められました。

漢化政策が取られたと言われ、胡語、胡服が禁じられたと言われます。

 

孝文帝の頃に都も洛陽に建設され、そこに遷都されます。

一方、北方の故地には六鎮と呼ばれる特別行政区が置かれますが、そこにはあまり高位の人々は赴任せず、中級以下の人々が派遣されました。

そして彼らの中から出たのが北周・隋・唐の建国者たちだったのです。

北周を建てた宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏すべてが六鎮の中の武川という地区に由来するそうです。

そのためか、隋でも唐でもレビレードと呼ばれる先代の王妃などの継承が行われていました。

 

中国の歴史と伝統と言いますが、やはり五胡十六国から隋唐にかけての時代に大きく変化があったようです。