爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「歴史屋のたわごと1 海の国の記憶 五島列島」杉山正明著

著者の杉山さんはモンゴル史・中央ユーラシア史が専門の歴史学者ですが、一般向けの本も書かれています。

この本はこれまでの経験で歴史にまつわる事について感じたことをエッセー風に書いてみるようで、シリーズで出版されるものと思います。

その第1巻で九州の西海上に連なる五島列島について。

 

著者は五島列島には一度だけ旅したことがあるそうです。

まだ大学院生であった頃、夏休みに少し時間が空いたので当てのない旅に出ようと九州に向かいました。

一応歴史に関係するところを見るということで名護屋城や長崎などを訪ねた後、五島に船で渡ったそうです。

ほとんど予備知識のないまま見たのが福江城でしたが、なんと幕末に建設されたということで驚きました。

福江島の最西端の大瀬崎まで借りた自転車でたどり着き西の海を眺めるという思い出を得たのですが帰りの記憶はあまり無いそうです。

 

五島列島は今では九州の西に浮かぶ辺境の島というイメージですが、かつて中国や東南アジアと船で交流していた時代には日本への航行の入り口とも言える場所でした。

そのため、遣唐使の時代、元寇の時代、倭寇の時代、南蛮貿易の時代と、それぞれ重要な意味を持つところでした。

そして最後に幕末の西欧列強が日本に手を伸ばしてきた時代にそれまでは城郭らしいものも無いままだった福江藩が海外船の来襲に備えるために急遽建造したのが福江城だったそうです。

 

遣隋使・遣唐使は初期の頃は朝鮮半島沿いに向かうコースだったのですが、新羅との国交が関係悪化でできなくなるとそのコースを取れなくなり、五島列島を経由してそこから一気に東シナ海を越えるというコースになりました。

そのために多くの船が暴風雨などで遭難したどり着く確率はかなり低くなったのですが、それでも中国の文化や財物を求めて渡る人は多かったのです。

肥前の松浦から五島列島久賀島を経由し、最後は間違いなく福江島の玉之浦を出港して東シナ海に乗り出していきました。

空海最澄といった人々も五島を経由して唐に渡って行きました。

ただし、「日本三代実録」には「唐・新羅より来る人、本朝から唐へ渡る人など、ともかく値嘉島を経ないものはいない」とあり、当時は福江島より値嘉島、つまり現在の小値賀島の方が五島の中心だったようです。

 

元寇対馬壱岐を荒らしたあと博多沿岸に来襲したというイメージですが、実際には松浦方面にも向かい一旦はその付近もモンゴル軍に制圧されました。

抵抗した武士だけでなく民衆も殺害されたというイメージがありますが、実際には民衆は逃れて生き残った人々が多かったようです。

2回目の弘安の役は高麗から発した4万の軍勢の他に中国南部からの江南軍10万を合わせ14万の大軍でした。

しかしどうも江南軍は軍備もお粗末であまり戦う気もなかったようです。

これはその前に元によって中国南部まで征服され、そこの兵士たちが行く場所を失ったために厄介払いで日本にやってしまおうという意図があったのだとか。

どうやら「移民船」のような意味だったようです。

それでも北九州の各地や五島にとってはその来襲の記憶というものはずっと後まで残っており、長い間外敵の侵攻に備えるという体制が続けられました。

 

なお本筋とは離れますが、15・6世紀のポルトガルイスパニアアメリカやアジアに進出していた時期のことを「大航海時代」と呼ぶことがありますが、これは日本だけの言葉であり海外では通じないそうです。

ヨーロッパでは「大発見の時代」とかつては呼んでいたのですが、それは西欧側だけの視点であり世界的には批判される姿勢となりました。

日本ではさすがに発見される立場からはそうは言い辛いということで、「大航海時代」という言葉を作り出したのだということです。

いずれにせよ、どちらも現代では使いにくい言葉になっています。

 

五島列島はどうも九州のニュースや天気予報で出てくる地図でも西のはずれと言うイメージが強いのですが、見方を変えれば日本の西の玄関口だったということでしょう。