著者の谷川さんは、専門の歴史研究者ではなく、出版社で企画編集などの仕事をされたあと退社して執筆活動をされたという、在野の歴史ファンと言うべき方のようです。
しかし、どうもこの古代史と言う分野では、専門家よりアマチュアの方が素直な解釈ですっきりとした方向を示すことが多いように感じます。
この本で谷川さんが着目したのは、中国の歴史書にある記述です。
「倭国」というものがあり、さらに「毛人の国」もあるとされています。(旧唐書)
さらに、「日本」という国号もあり、「倭国」が国名を代えてそう名乗ったとする記述もあり、別のものでは「倭国」が「日本」を破って併合した(新唐書)、あるいは逆に書かれているもの(旧唐書)もあります。
専門家たちはこの点についてあまり述べようとしていないようですが、谷川さんはここに大きな意味を見出したようです。
邪馬台国がどこにあったかを巡っていまだに論争が行われていますが、それがどこかに関わらず、稲作などが伝わったのは九州であることはまず間違いなく、最初に小国が起こったのも九州でしょう。
そして、その後いずれの時期にか、東に遷り近畿地方を中心として発展していったのもまず間違いありません。
大方の専門家の議論では、その時期を明示せずに邪馬台国の頃にはすでに東遷が終わり大和を中心に発展し始めたとしていますし、九州王朝説ではそれをかなり遅い時期としています。
この点について、本書で谷川さんは最初の本拠地は北九州の筑後平野であること、そしてそこから最初に物部氏が東に遷り近畿地方の蝦夷を配下において勢力を広げたという説を取っています。
それは1-2世紀の頃ではないかとも説いています。
そして、その地域のことを故地の九州からみて日の上がるところという意味で「ヒノモト」日本と呼んだのではないかと提示しています。
さらに、その後九州に残った倭国の本体からも神武天皇に擬せられる王を中心にして近畿に東遷しようとした。
それに抵抗したと言われるナガスネヒコは物部氏と結んでいた蝦夷の一族であり、やがて破られました。
物部氏も東征軍に降伏しそこに大和王朝が開かれたとしています。
この根拠として、物部氏は金属精錬に熟達し、特に近畿を中心にした銅鐸を作っていたのではないかということ、そして東征軍に服した後は銅鐸も製造しなくなり、消えていったことも挙げています。
そして、それが新唐書にある「倭国が日本を併合した」という記述の元になった史実であろうということです。
このような大乱の起きた時期は何時か。
これに大きく影響をもたらしたのは、朝鮮半島における政変であろうということです。
まず、漢が半島に楽浪郡などを置いたのはBC108年ですが、それが漢の乱で支配が弱まると半島も倭国も大きな乱がおきます。
これが紀元2世紀頃、物部氏が東に逃れたのもこの頃でしょう。
さらに、後漢末に帯方郡が置かれ一時的に朝鮮半島の支配が強化されますが、それも4世紀前半には衰退します。
邪馬台国(神武天皇?)が東に移ったのもその頃ではないかという推測です。
その後、東に逃れた蝦夷や物部氏の残党を征伐しながら大和朝廷の勢力が徐々に広がりました。
なかなかおもしろい観点からの古代史で、すっきりしているようにも感じられます。