日本語には「女ことば」というものがある。
誰もがそれは事実だと感じているでしょう。
それが好ましいものか忌まわしいものかという捉え方は人により違いはあるでしょうが、その存在自体はあまり疑われていないはずです。
また諸国の言語にもこれほど明確な女性専用の言葉はないのではないかという印象も持たれているでしょう。
しかし、その歴史を詳しく見ていくとどうやらそう簡単な話ではないようです。
女ことばとはどのようなものか。
全体として丁寧に話すということもありますが、典型的な例としては文末に「わ・ね・よ・かしら」といった文末詞を付けるということがあります。
「わたし、おなかすいたわ」といえば女性の発言だとわかるようになっています。
しかし、実際にこのような話し方をする女性がそれほど居るでしょうか。
どうも周囲の女性たちを見てもこのように話す人はあまり見たことがないようです。
それは、「最近はこうなってきた」というような移り変わりによるものではありません。
最初からそうであったようなのです。
女はこうすべしという女性用マナー本というものは鎌倉時代からありました。
しかし、その中では「あまりしゃべるな」ということは書かれていますが、どのように話すかということには触れていません。
これは江戸時代から明治に入っても同様でした。
宮中の女官達が使ったと言われる「女房詞」(にょうぼうことば)が女ことばの起源だと言われることもあります。
髪を「かもじ」、汁を「おみおつけ」というといったものです。
これは宮中から始まりやがて武家の奥にも広がり、そこに奉公に来た女中たちにも広がっていきました。
しかし、これが「女ことば」につながるということではないようです。
明治になり、日本と言う国がはじめて全体として考えられるようになると、言葉も統一しなければならないということになりました。
その「標準語」としては東京の言葉を当てるということになったのですが、東京語というものがきちんとあったわけではありません。
東京でも下町の言葉は不適と考えられ、その基本としては「中流社会の男子の言語」を標準語とするという認識になりました。
これは「国語の男性性」というイデオロギーがあったということです。
書生言葉というものも普及していましたが、それに近いものが標準語化していきました。
その当時に、女学生たちが使う女学生言葉というものも流行していました。
しかし、これらは正式に標準語に取り入れられることはなく、かえって非難されていました。
文末に「てよ・だわ」という文末詞を付けるという、今でも共通に女ことばとして認識されているものです。
当時はこれらを使う女学生というものは、それまでは許されていなかった「学問をする女性」ということで、男性からは苛立ちを持って見られていました。
そして、そのような女性のシンボルとして、「てよだわ」言葉も使われたのです。
小説などに戯画化しても使われましたが、実際にも明治12年頃には使う女学生が出てきたようです。
しかしそのころの風潮としては、こういった言葉を使うのは軽薄な女学生だけであり、本当に深窓の令嬢は高貴な言葉使いをするものだという感覚でした。
そして、そういった女学生を批判する立場での言説に登場していたのが、実際にはほとんど使う人も少なかった女学生言葉であったとも言えます。
しかし、このような女ことばへの冷たい見方が、海外に植民地を持ち天皇崇拝を強めた時代になるとがらりと変わります。
朝鮮などで日本語教育をする場合に女性が話す言葉というものも教育せざるを得ず、それには典型的な女ことばを使うしかなかったようです。
さらに、それが日本の古来の伝統であるかのような位置づけをされ、女房詞からのつながりも強調されます。
こういった「起源の捏造、伝統の創造」を経て「女ことばは日本の誇り」とまで言われるようになります。
こういった動きは戦争に敗けアメリカに占領されたのちにも続いていきます。
天皇制を支えてきたのが家族の男性支配であったという認識から、それを少しでも守りたいという人々があり、彼らは占領軍の圧力にも屈せず抵抗しました。
戦後すぐの教科書でも、「たろう かわいそうだなあ、はな子 かわいそうねえ」といった男女を言葉でも分けるというものが頻出します。
こういった「ぼくとわたしの教科書」はしばらくは生き残ります。
このように、日本語に「女ことば」は「ある」のではなく「人為的に作られ必死に守られている」ということができるようです。