爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「AI翻訳革命」隅田英一郎著

副題に「あなたの仕事に英語学習はもういらない」とあります。

本当にそうなのでしょうか。

 

著者の隅田さんは長く翻訳というものの研究に携わり、さらに全く役に立たないと言われていた時代からコンピュータを使った自動翻訳にも関わってきました。

それが急速に発展してきたのはやはりAIというものが現れ、それを自動翻訳に使えるようになったためだそうです。

もはや外国人と接する職業の人たちにとっては必須のものとなりつつあるのが自動翻訳機、そしてそれは英語だけに限ったものではなく多くの言語にも対応しています。

 

ただし、自動翻訳にはどうしても誤訳がつきもので、現在でも精度は90%、すなわち1割は誤訳があるということです。

これがあってはならない場合もあり、台風の水害で避難勧告が出た時に「川の周辺に避難勧告が出ました」というものをポルトガル語に翻訳したのですが「川の周辺に避難してください」という意味になってしまったそうです。

ただし、そういった翻訳事故の対策もできつつあり、「必ず逆翻訳をしておかしいかどうかを判定する」というものがあるそうです。

つまり、日本語から英語にある文章を翻訳した場合、その英文をもう一度日本語に翻訳する。それで変なものになれば元の翻訳がおかしいと判断することになります。

 

こういった翻訳能力の向上に大きく関わったのがAI(人工知能)の能力の劇的なアップでした。

その要因の一つが、大規模データの利用ができるようになったことだそうです。

それまではAI研究はちょっと足踏み状態と言えるようなものでしたが、世界を牽引するアメリカと中国で大規模データの利用ができるような変革が起き、その結果AIの能力も向上したということです。

AI翻訳のためには「良質で少量」のデータより「悪質でも大量」のデータが必要です。

その環境が整ってきたために、翻訳の能力も一気に向上してきました。

初期には自動翻訳も人間の翻訳と同じように文法から入るという方式が研究されたそうですが、それは全く上手くいきませんでした。

それがAI方式により大量の訳例を取り込みそれとの類似性を使うということによって、急激に進歩してきました。

 

文書は翻訳ですが、会話は「通訳」です。

この能力も向上してきており、すでに「逐次通訳」はかなりの程度で可能となっています。

この逐次通訳というのは、ある言語の会話が一通り終わるとそれを翻訳して別の言語の会話として出力されるというものです。

これは既に小型の装置(スマホでも)で使用可能となっています。

今後は「同時通訳」すなわち、会話をしながら翻訳文も出力を並行して行うことであり、日本語と英語の場合は語順が異なるために難しいものですが、これも近々可能となるそうです。

 

このような翻訳装置の能力向上は「外国語教育」と大きく関わってきます。

子どもが誰も疑問に思うのが「こんな便利な装置があるのに何で英語を学校で習わなきゃならないの」でしょう。

実際にそれは大問題となりつつあります。

アメリカの研究によれば、外国語を習得するのに必要な時間数が、フランス語などで600時間、インドネシア語などで1000時間、ロシア語などで1500時間、そして「最も難しい言語」すなわち日本語で2200時間かかるということです。

日本人が英語を習うのも逆ですが同様の時間がかかるとすると、学校で高校までに英語教育にかけられる時間数が約1000時間、2200時間の半分もありません。

日本人が学校で習っているといっても英語が使えないのも当たり前です。

ならばさらに倍以上の時間数をかけて英語を習わなければならないのか。

そんなバカなことをすれば他の科目が何もできなくなります。

逆に「普通の日本人は英語教育などは必要ない」とすればそれを激減させて他の科目の勉強に使えることとなります。

もう「英語はAI翻訳機任せ」で良いとするなら学校教育が激変できるかもしれません。

しかもこれは日本人だけの問題ではありません。

世界の英語話者の多くは非英語母語話者であり、状況は一緒です。

彼らも含めて世界中の人が自動翻訳任せとすることで、英語母語話者の圧倒的優勢というものが崩れるかもしれません。

 

自動翻訳というものはさらに進歩が続くのでしょう。

まだ「だからといって英語教育は無くせない」というのが公的な姿勢でしょうが、いずれはこれも崩れそうです。

試験会場に翻訳装置を持ち込めば簡単に問題が解けるようになれば、そもそもその科目自体が要らないということなのでしょう。