言語学という学問はあまりその真の姿が知られていないようです。
小中高では学ぶことはなく、大学でもほとんどの学生は触れることもありません。
それでも「言語」自体は誰でも使っているために、言語学というものもそれからの類推でイメージを抱くようです。
そのため、言語学者であると言うと何か国語も操ることができるように思われたり、日本語は世界で一番難しい言語なんでしょうと言われたり、実際の言語学の対象とは全く違うことを聞かれることもあるようです。
著者は実地調査を手法として用いる「フィールド言語学者」ですが、このところの感染症流行ですっかりフィールド活動ができなくなりました。
そこでというわけではないのですが、暇に任せて?言語学についてのエッセイを書いたそうです。
書かれている内容は日常の生活や思い当たることなのですが、それが言語学のどの分野に関連するかということも目次に書かれています。
それを見ると言語学の対象分野というものが非常に多岐にわたっていることが判ります。
語学、音声学、社会言語学、意味論、歴史言語学、音韻論、比較言語学等々。
それぞれに専門の研究者がいて日々研究を進めているのでしょうが、なかなかそこまでは想像するのは難しそうです。
ある言語の言葉を他の言語に翻訳するということは日常的な事であり、学校の英語の時間でも誰でもその練習をさせられています。
しかし、本当にある言葉を翻訳することができるのか。
翻訳できたかのように思っていても全然違うのではないか。
そういった書籍も多く書かれており「翻訳できない世界の言葉」という本もあります。
ただし、どうやらそれは「一語や二語で移し替えることはできない」と言った程度の問題を取り上げているようです。
実際には一語の単語を説明するのに多くの文章を費やせばほぼ翻訳することはできるはずです。
簡単に「翻訳不能」などと言ってほしくない。
「木漏れ日」という日本語を英語に翻訳しづらいとは言っても、「それなりに葉っぱの量が多い木、または木々の下で、上空から射してくる太陽光が大部分は遮られつつ、すき間からチラチラ降り注いでいる、その状態」と言ってしまえばほぼ翻訳はできたことになりそうです。
まあ通訳としては役に立たないでしょうが。
ただし、言葉に結びついたイメージというものの構造は各言語そして各民族により相当違いがあり、それらを考えることなしに単に言葉を移し替えただけで翻訳したとは考えない方が良さそうです。
どの言語を取ってみても、言い換え表現というものがあり、成句や比喩というものが存在します。
婉曲な表現というものを求めるのは人類どこへ行っても同様らしく、「死ぬ」という単語を使いにくいがために「天に召される」「仏になる」「息を引き取る」などと表わされます。
各地の言語の例を見ると「隅に匙を投げる」「バケツを蹴る」「武器を左に置く」「畑を買う」「しわがれ声を出す」「塩漬け卵を売りに行く」「光を追う」「草をはむ」などと言う表現が見られるそうです。
日本語で「あぶはち取らず」と言う表現も各言語で次のように表されるそうです。
ペルシア語「神かナツメヤシか」
スワヒリ語「分かれ道はハイエナに勝つ」
モンゴル語「戒律も無く、兎もいなくなった」
ウルドゥー語「半分を捨てて全ての方を追ったら半分すら手から落ちた」
ネパール語「二人の妻を持つものは部屋の隅で泣く」
まあそれらしいとも感じますが。
「日本語は世界でも稀な特殊な言語だ」と言う人が多いようです。
英語やフランス語など「世界的な言語」と比べてかなり違っているというところからそう感じるのでしょうが、そのような大言語だけが世界の言語であるはずもなく、他にも数千と言われる言語を見ていくと、日本語というものは特殊な面もあり、また平凡な面もあるといったところのようです。
言語としての性格を他の言語と比較したという表が載っています。
他との共通性が高い方からいくと、
音声言語である(97.9%)(共通率)
前舌円唇音を持たない(93.4%)
主語・目的語のいずれかには明示的な標示を持つ(93.1%)
といった点は他の言語とかなり共通することで、日本語も「平凡な言語」と言えるのでしょう。
一方、あまり共通性のない方では、
三種類の文字を併用して表記する(唯一)
敬語で二人称代名詞の使用を避ける(3.4%)
主語も目的語も動名詞句の中では属格で表現できる(5.6%)
といったものです。
特に、漢字・ひらがな・カタカナの三種の文字を同時並行で使っているというのは他に例のないことのようです。
言語学というものを中々うまく表現して素人にも分かりやすく書かれていたと感じました。