フェイクニュースと言う言葉があふれています。
特にネット情報と結び付けて言われることが多いのですが、もちろんネットに限った話でもなく、どこにでもあるものでしょうが。
そういったフェイクニュースについて、哲学者の山田さんがあくまでも哲学の立場からそれを考えていきます。
まず序章では「フェイクニュースとは何か」というところから考え始めます。
真実か否かを定めることはそう簡単な話ではありません。
真理の価値とは、そして真理を気に掛けることの価値とは。
そして第1章ではそもそも「他人の言っていることを信じてよいのか」というところから考えます。
さらに第2章「うわさは信じてよいものか」第3章「どの専門家を信じればよいのか」と進みます。
さらに第4章「マスメディアはネットよりも信じられるか」となると、もう何を信じたらよいか分からなくなるでしょう。
第5章では「陰謀論を信じてはいけないのか」とくるともうなんでも信じてよいのか。
終章は「真偽への関心は薄れていくのか」ともう情報の真偽などは問題ではないかのようです。
証言の価値というものは、それを誰が言っているのかで大きく左右されます。
実際に知っている人だけでなく、メディアに出ている人でもその人をずっと見続けているだけでも信頼できるかどうかが決まってきて、それでその人の証言が価値あると感じられます。
しかしネット情報というのは、他のメディアで露出している人もありますが、まったく知らない人が発するもの、ましてや匿名というものも多く、それがなぜ信頼できるのか。
ハンドルネームを使用していても、それがずっと同一人とは限りません。別の人間が装っているだけかもしれません。
専門家の証言は信じられるかどうか、もちろんその専門家の専門知識というものは一般人では判断できません。
肩書だけで何となく信じるしかないと思うのが関の山。
しかしその専門家の態度、話の言い方などを見ていて「この人は信じられる」と思えるものです。(思えない人もいます)
そこには「知的な謙虚さ」というものを感じられるかどうかも重要なようです。
専門家でありながら自分の知的な限界を正しく自覚していることを他の人に感じさせることができる人は専門家として信頼できるともいえるわけです。
ネットにはフィルターバブル、エコーチェンバーと言う問題があります。
利用者の利用状況に合わせて提供される情報をフィルタリングするという機能が働いています。
既存のマスメディアにもそれぞれ色合いがあります。
某新聞は右翼丸出し、他の某新聞は反対にリベラルといったことは多くの人が気付いています。
ただし、新聞の場合はそれが分かっていてそれに従って嫌なら見なければ良いということになります。
しかしネットではどのようなフィルターがかかっているか、はっきりと明示されていません。
そのようにネットのフィルターは「孤立している」「見えない」「選べない」と言う点で従来のマスメディアのフィルターとは異なる特徴を持っており、それが問題点だとも言えます。
陰謀論を信じてはいけないのか、というのは興味深い論点でした。
今の風潮では「陰謀論」と言う言葉はそれだけで唾棄すべきもので、それを持ち出せば相手の意見を封じることができるかのようです。
しかし、実際に「陰謀」が行われていることもあります。
スノーデンが暴露する以前には「アメリカ国家安全局が一般市民の電話を盗聴している」と言う意見は陰謀論かのように扱われていました。
しかしスノーデンのおかげで、それは実際に行われているということが明らかになりました。
してみると「陰謀論」で片づけられているものの中にも「本当」のものが含まれている可能性があります。
このような例は歴史上でもいくつもありそうです。
いやはや、フェイクニュースの見分け方などということを簡単に言うことはできないようです。
