高校の国語の授業では漢文というものがありました。
漢字が連なった文章に色々な記号(返り点や一・二など)を付け、それで読んでいくというやり方をしていました。
元となる文章は古代の中国の言葉そのままのはずですが、それを日本語で無理やり読んでしまうということでした。
こういう文化は日本だけのものなのか。
それに興味を覚えた著者は中国周辺の国々での漢文の読み方を研究していきます。
そこで判ったのは、日本風と思った漢文の読み方というものがあちこちに存在していたというものでした。
中国を中心とした東アジアでは様々な言語が使われていますが、中国語は孤立語、そして周辺各国の多く(日本、朝鮮、満州、モンゴル、ウイグル)では膠着語と呼ばれるグループの言語が話されています。
しかし中国の圧倒的な文化の侵入にさらされてきたのがこれらの各国であり、漢字の使用も同様でした。
それらの言語による文章はどうしても漢文というものを使いながら自分たちの言語に合わせた読み方をせざるを得ない状況となりました。
もちろんその程度には国による違いが大きく、朝鮮のように中国の影響が強いところでは漢文も中国風に読むことが特に男性上層階級では普通となりましたが、それから少し離れた日本では中国語の影響が弱く、訓読が残ったのかもしれません。
本書では続いて日本における漢文訓読の歴史が語られます。
日本に漢字文献が本格的にもたらされた飛鳥・奈良時代は仏教の時代であるともいえるのですが、その仏典というものは実は起源がインドにあり、中国では梵語を漢訳したという経緯がありました。
梵語(サンスクリット語)とは中国語とは全く違う系統の言語であり、文法も異なるものでした。
その梵語で書かれた仏教経典を中国語に翻訳するということは、中国では歴史上稀なことでありそこには相当な苦労があったはずです。
そういった漢訳の苦労は実はそれを日本に持ってきた人々も知っており、その漢訳経典を日本で読むという行為にも影響を与えました。
そこから訓読という方法が発展してきたとも言えます。
訓読には各種の記号を付して読むのですが、それにも時代により進化が見られます。
草創期の奈良末期から平安中期には語順点、ヲコト点といったものが使われました。
それが平安中期から院政期にいたり完成期ともいえるようになります。
その頃にはすでに漢文は訓読で読むことが当たり前となり、本文の意味が理解できれば良いというだけでなく、訓読自体を定型化し同じように読むことが求められるようになりました。
そして鎌倉時代から近代にかけて、ヲコト点に代わってレ点、漢数字、上中下、甲乙丙などの記号で読み順を指定する方法が取られるようになります。
次章では韓国朝鮮から東アジア諸国における漢文の読み方を見ていきます。
現代の韓国では漢文の読み方は音読、直読で意味の切れ目に助辞を挟む読み方なのですが、歴史的にはそうではなかったようです。
古代史を見ていくと新羅の時代には日本のような訓読が行われていた証拠があります。
いや、実際には新羅で行われていた訓読の方法が日本に影響を与えていたのかもしれません。
新羅の知識人の薛判官が日本の淡海三船と交流があったという記録もあります。
仏典も新羅から伝わったものが多く、そこに訓読の方式が重なっていたこともあり得ます。
しかし朝鮮ではその後貴族の男性は中国語の影響を強く受け、漢文はそのまま直読することが普通となっていき、訓読はすたれてしまいました。
その他の中国周辺でもモンゴルやウイグル、ヴェトナムでは訓読的な現象が見られたようですが、民族自体が動いていったため残っていないようです。
実は中国本土でも中国語自体が変化が激しく、古代の漢文と現在の文章では語順がかなり違っています。
すでに唐宋期にはその変化が始まっており、白話という話し言葉と漢文の書き言葉の乖離が大きくなっていました。
日本で漢文というのは古代の語順のものを指しており、白話は入っていません。
漢字の読み方も時代によって大きく変わっているのですが、文法も変化が大きいもののようです。
漢文とその訓読というのはなかなか大きな文化遺産であるということなのでしょう。
