副題にもある「漢委奴国王」の読みという一章の他、三章の文章をまとめたものです。
ただし、あとの三章はいずれも古代に活躍していた海洋民族の言語というものを主題としており、取り上げる対象は少し違っていても多くの論拠は共通で、紹介される他の研究者の言説も同じものが多く、あれ、これは前に読んだがと思った場面が何回も出てきました。
著者は中国語学が専門ということで、古代の漢字伝来の頃の状況でも当時の読みを考えなければ大きく間違った方向へ進んでしまうと論じています。
現在までの多くの国語辞典の類でもその錯誤がまかり通っており、著者に言わせれば明白な間違いも数多く見られるということです。
副題にある「金印」の文字、漢委奴国王についてはこれを何と読むかという学説は数多く発表されています。
多くの説では、委は倭と同じ、奴は博多湾付近にあった奴国であろうとして、漢の倭の奴の国王と読んでいますが、著者に言わせればこのような中国発の印章で「AのBのC」といった三段階の記述例はないそうです。
つまり、二段階で「漢の委奴」であり、「委奴」が一つの意味とならなければならないということです。
それではその「委」と「奴」の文字は何を表わすのか。
どちらも「倭」は醜く小さい、「奴」は奴隷を表わすので悪い意味だと言われていますが。
ここにも現在に残る中国からの言葉の系統の言葉が関わっているということです。
「委」「倭」はその後「和」となり、「大和」となったように「倭の国」を表わしており、これは自称していたものだということです。
そして「奴」の字は他の用例から見ても後置修飾語で「大きい」を表わすものです。
日本語や現在の中国語では後置修飾語というものは見られず、すべて前置修飾語ですが、かつては後置の例が見られた。
そしてこの「奴」という修飾語は、当時使われていた「nui」というもので、「大きい」という意味を持っていたとうことです。
つまり「委奴」はそのまま移し替えれば「大和」であり、「偉大なヤマト」そのものだということです。
次からの三章はすべて海洋民族の言葉で日本語の中に残ったものの考証です。
東南アジアから太平洋に広がっていった海洋民族は日本にもやってきたのですが、その後は他の民族と同化してしまいました。
しかしその言葉の一部は特に海や舟に関わるところで残っているということです。
「カヌー」というものはカリブ海の原住民が使っていた言葉から取られたのですが、その源流は太平洋の海洋民族にあります。
古代ポリネシア語から分かれたハワイ語では「ワア」と呼ぶのですが、それより古いサモア語では「ヴァア」、マオリ語では「ワカ」と言います。
カヌーにも多種があり、アウトリガーが1つのものはハワイ語では「カウカヒ」双胴のものを「カウルア」と呼ぶのですが、この「カウ」や「カラ」が実は古代の日本語の中で海や舟を呼んだ言葉の中にのこっているそうです。
万葉集に船の名称として「軽野」や「枯野」という言葉があり、次代にはもうその意味が忘れられて「枯れた秋の野にちなみ」などと解説されているのですが、これが実は古代海洋民族の言葉から来たのだろうということです。
また、「手船」や「小船」という名称も出てきていますが、この「手」や「田」「小」なども上記のようなカヌーを表わす言葉の残照なのだそうです。
福岡の「博多」という地名もそこから派生したということです。
また西日本一帯に「田ノ浦」「田浦」といった地名が残っています。
これも現在では由来が忘れられ「水田があったから」などと考えられていますが、ほとんど水田も作れないような入り江が多くその語源はあり得ません。
これもポリネシア由来の古代海洋民族の言葉が残り地名となっていったということです。
アイヌ語が残る北日本の地名の例を見るのと同様、西日本の沿海部にも古代海洋民族の言葉に由来する地名があるのかも。
なにか心惹かれる話です。