歴史家岡田英弘さんの著作を集めた著作集の第4巻、シナに関する部分です。
最初の本の時に紹介してますが、岡田さんは中国という名称はごく最近の近代になって使われるようになった言葉であり、あの地域を歴史的に呼ぶにはふさわしくなく、諸外国でも用いられている「チャイナ」あるいはそこから由来する「シナ」と呼ぶことが正しいとしています。
そのような、シナの歴史というものについて、これまでの文章を多く掲載していますが、その論調は激しいものであり、広く信じられている概念もあっさりと否定されます。
痛快ではありますが、すべてを信じるということもためらわれるもののように感じられます。
「中国4000年の歴史」(または”5000年”)などと言われますが、シナがその歴史を始めたのは秦始皇帝からであり、それ以前はシナ文明とも言えないばらばらの都市の混在に過ぎないということです。
(だからこそ、あの地域を”シナ”と呼ぶということになります)
始皇帝が地域一円を統一し、様々なものを一本化することで、ようやくシナが成立しました。
そして、人々も漢人と言えるような集団となったということです。
しかし、その統一もその後、漢王朝が継承したものの後漢末の混乱で社会は崩壊します。
何度も繰り返し記されますが、漢の最盛時には人口が5000万人以上と、当時の最高レベルに達したものの、黄巾の乱などで社会が崩壊し人口も激減します。
三国時代の初めには合わせて500万人ほどと、全盛時の1割にまで落ち込み、ここで漢人というものもほとんど滅亡したとみています。
隋唐もその一派の鮮卑人が建てたと言えます。
流入した遊牧民たちはシナに暮らすうちに自らを漢人であると自称しますが、血統としては多くが北方民族と言えます。
そして、彼らが後から来る北方民族を敵視したのが「中華思想」の始まりということです。
中国語と漢字というものについても、岡田さんの見方は非常に独特で厳しいものです。
漢字というものは、その読み方が古代から現代まで、まったく分かりません。
日本語に取り入れた漢字は、それにフリガナを付けるという行為をしたためにどのように読んだかということが古い時代までたどることができますが、中国でどのように読まれていたかということは、はっきり記録されていません。
中国各地には多くの方言があり、相互に通じないほどであるということはよく言われますが、岡田さんによればそれは方言などと言うレベルの話ではなく、違う言語と言った方が正しいということです。
これは、古代でも同じ状況でした。
春秋戦国時代になっても各国の言語は異なっており、相互に通じなかったということです。
そこで、漢字を使って書くことで相互の意思疎通もできたというのが実情だったようです。
孔子一派の儒学者という人々も、その漢文を操り各国の通訳を務めるというのが存在理由だったとか。
そこで使われる漢字自体にも多くの異体がありました。
それを統一したのが秦の始皇帝であり、一般には思想統制のためと考えられている「焚書坑儒」も、国全体として漢字を統一しようとする目的だったとみています。
このように、シナ語における書き言葉と話し言葉の乖離というものは、ほかの言語には見られないほど大きなものですが、そこには大きな問題点が含まれています。
書き言葉というものがその言語を用いて行われる精神作業のレベルを決めています。
簡単な言葉だけでは幼稚な精神レベルにしか到達できません。
複雑で高等な精神作業を書き表せるようになって、初めてその言語を用いるグループ全体のレベルも向上します。
シナ語においては、実はこれまでも現代も十分に書き言葉を操ることができるのはごく少数の人々だけでした。
だからこそ、科挙というものを通じて高級官僚になるための努力が続けられてきたのですが、実はその他のほとんどは文盲のままであるというのが実像です。
それでは多くの人々の精神レベルは上がりようがありません。
あまりにも難しすぎる漢文というものの構造から、このような事態が発生してしまいました。
明治時代に日本が漢字を駆使して欧米文化を取り入れ、多くの熟語を作り出しました。
当時、中国からも多くの留学生が来日し、その有様を見て日本が作り出した熟語を中国に持ち帰ったそうです。
魯迅も、その発想方法は日本で身に着けたものであり、それが中国の言語を変えていったのだとか。
他にも、中国の歴史観ということについても興味深い論調で語られています。
内容が濃すぎて、記しきれません。
シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))
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