仏教はインドで起こり中国には後漢の時代に伝わりました。
その後仏教信仰は広がっていきますが、仏典の元の言葉はサンスクリット語(梵語)で中国語とは言語体系もまったく異なりました。
それを何とか中国語に翻訳しなければならなかったのですが、一部の言葉は音をそのまま移し、一部は意味を捉えた意訳としました。
漢字もその意味を活かして移したものもありますが、中には元の意味とは全く違う意味で使われてしまった字もあります。
そのような様々な仏教用語の漢語について、あれこれ50の言葉を紹介しています。
「禅」という字を見れば、今では仏教の禅宗のことを思う人が多いでしょう。
しかしこの漢字はもともと中国にあったもので、それを用いた熟語もまだ使われています。
首相などが交代する時に「禅譲する」という言葉が使われます。
また中国の秦の始皇帝や漢の武帝が行った「封禅の儀」という言葉を知っている人もいるでしょう。
ここでの「禅」の意味は、仏教の禅宗とは関係ないようです。
実は「禅」の字の元の意味は「天を祭る」ということでした。
さらに「天子がその地位を異姓の有徳者に譲る」ことも「禅」と言いました。
封禅、禅譲はそのそれぞれの意味で使われている言葉です。
仏典の漢訳の際にはそういった意味は関係なく、サンスクリット語の「dhyana」の俗語形「jhan」の音をそのまま似た字に移して使われました。
「分別」は「ふんべつ」とも「ぶんべつ」とも読みます。
ただし、「ふんべつ」と読む場合は「思考の中から出てくる的確な判断」の意味で、これは仏教用語から来ています。
「ぶんべつ」と読む場合は、ゴミを捨てる際の燃えるゴミと燃えないゴミを分けることのように、「ものを種類ごとに区別する」ことを表します。
これも仏教用語から来ているようですが、少しその成り行きは複雑なようです。
一般に漢字の熟語の読みは漢音と呉音がありますが、仏教用語は呉音で読むのが普通です。
分別の場合は呉音が「ぶんべつ」、漢音が「ふんべつ」です。
ならば「ぶんべつ」と読む方が仏典用語なのか。
この場合は数少ない例外となっているようです。
なお、仏教伝来以前にも中国には分別という言葉があり、司馬遷の「任少卿に報ずる書」や魏皇帝の曹丕の書簡などに使用例があり、けじめをつけること、別れることなどの意味がありました。
「塔」が仏教用語であるという意識は今はあまりないかもしれませんが、もともとは墓地に立てる卒塔婆のことを指しました。
サンスクリット語ではstupaでありこれをそのまま音写したのが卒塔婆であり、意訳したのが塔でした。
ただし、塔という漢字字体新しいものであり、後漢の漢字辞典である説文解字にはこの字は載っていません。
4世紀の西晋時代以降にstupaの訳語として新たに作られた文字であったようです。
「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだ元首相が居たということで話題になりましたが、「みぞうゆう」という読み方もあるという説もあります。
しかし呉音と漢音の違いを見ていくと、未は「み」、曾は「ぞう」、有は「う」と読むのが呉音であり、正しい読み方は「みぞうう」であったはずです。
それがいつの頃からか最後の「う」が略されて「みぞう」だけになりました。
そして未曾有を「みぞう」と呉音で読むのはこれが仏典用語だからです。
漢訳仏典では至る所に頻出する言葉です。
「これまでなかったほどの」という意味のadbhutaという言葉の訳語として用いられました。
というわけで、やはり「未曾有」は「みぞう」と読むべきであり「みぞうゆう」と「ゆう」だけ漢音で読むのは間違いということです。
また知ったかぶりの種を増やすことができました。