新型コロナウイルスの感染で世界中で社会活動が止まるなど大きな影響が出ました。
しかし、これまでも様々な病原体による感染拡大は繰り返し起きています。
技術進歩により感染に関する情報は瞬時に世界中に広まるようになりましたが、実際にはこれまでのパンデミックの方が死亡者がはるかに多いものもあり、社会に与える衝撃はより大きかったものも多かったようです。
この本では日本の古典文学を研究してきた著者が、感染症というものを扱った文学についてその性格やそこに描かれている社会の諸相などを分析しています。
新型コロナウイルス感染では死者も相当な数が出ていますが、高齢者や基礎疾患のある人たちが犠牲になることが多いようです。
しかし以前のパンデミックではまだ若い働き盛りの人が感染してすぐに死んでしまうということが起きていました。
それは周囲の人たちにも大きな心理的重圧を与えるものであり、「次は自分や家族かも」といった恐怖心が誰の心にも湧いてきたようです。
そういった心理を描写する文学作品も数多く生まれています。
かつての感染症としては、結核、スペイン風邪、コレラ、腸チフスなど、現在では治療が可能となっているものもありますが、当時はまったく治療法も無く神頼みしかないということもありました。
また感染ということも分からずに祟りとか遺伝とか誤った観念で判断されることもありました。
それが人間関係に大きく影響することもあり、それを文学作品の主題とするものも書かれています。
正岡子規は結核にかかり死亡しましたが、それまでは遺伝病と考えられていた結核もようやく感染病であることが分かりかけていた頃でした。
「消息」や「病床六尺」といった作品にその闘病中のことを書いています。
感染するということは分かりかけていたとはいえ、多くの人はそれを気にすることも無く、母親が感染して子供に近づくなと言われてもそれを止められないといった人間模様も仕方ないものと書かれています。
また子規のところには多くの来客が感染後も訪れていましたが、彼らも飲食はしないことと言ってもやはり飲み食いしてしまうということがあったようです。
菊池寛はスペイン風邪が流行していた頃に「マスク」という作品を書きました。
本人は肥満で心臓も悪く、もしも感染したらひとたまりもないと言われて過剰なほど消毒に注意し、マスクも手放せなくなりました。
しかしようやく感染も収まりかけ、マスクを掛ける人も少なくなってきた時に、若い男でまだマスクをしている者を見かけ非常に不快感を感じたということです。
その心理的な動きを自ら解析しています。
コロナ禍の中でこういった文学作品はどれほど生まれているのでしょうか。