大きな荷物を背負って魚などを売り歩く行商という人々は昔はあちこちで目にしたように思います。
しかしいつの間にかほとんど消えてしまいました。
あまりにも大きな荷物で列車に乗り込むために鉄道も特別な車両を設けたということもありましたが、これも消え去りました。
本書著者の山本さんは民俗学者ですが、こういった行商人の歴史というものに非常に興味を持ちあちこちに取材に出かけたりということをしたのですが、山本さんがそれを耳にした平成13年当時でもすでにほとんどの経験者が引退し亡くなっていった時期でした。
それでもわずかに残った人々に話を聞いて全国を回るといった調査の成果がこの本です。
こういった行商の人々はブリキで作った缶に魚と氷を詰めてお得意さんのところに向かいました。
そのため、「カンカン部隊」とか「ガンガン部隊」などと呼ばれる地方もあったようです。
多くは女性であり、漁師の妻が多かったようですが、そればかりでなく漁港で魚を仕入れて列車に乗り込むといった人もいました。
行商人専用の車両に乗り込むということで、各地で行商人が組合を作り鉄道と交渉し、組合員証をカンカンに付けて列車に乗るということをしていたのですが、その組合もすでにほとんどが解散、その記録すら残っていないという状況です。
また所によっては様々なトラブルもあったということで、存命であっても話をしたくないという当事者も多かったようで、著者の取材もかなり難しかったようですが、何度も足を運びようやく口を開いてくれたということも多かったということです。
魚の行商というものは昔から行われていましたが、古くは漁港から徒歩で行ける範囲に売りに行く程度でした。
しかし鉄道網が整備されるにつれ、新たな売り先を見つけるという努力がされだしたのは戦前から始まっていました。
ところがまだ魚から滲み出す水を防ぐような容器が無く、臭いをめぐってトラブルになったりすることが多かったようです。
戦後になり、魚の配給制度も終了して自由販売となった頃から、ブリキを加工して水漏れを防ぎ、氷も一緒に入れて鮮度を保ち売り歩くことができるようになり、そういった行商人が多くなったところでは鉄道会社と交渉して専用車両を設けてもらうという動きが強まりました。
こういった鮮魚の行商人の最盛期は実は昭和も30年代から40年代になってからのことでした。
著者の調査は広く行われていますが、伊勢志摩から近鉄の鮮魚列車で大阪に向かった人々、鳥取から因美線などで向かった人々、などを詳しく描いています。
しかし山陰では国鉄の民営化の時期に赤字ローカル線の廃止といったことが頻発し行商も不可能となりました。
近鉄の鮮魚列車は長く残ったものの、それを利用して大阪に向かう行商人自体が激減していきます。
著者が話を聞けたのも平成の終わりの頃に当時かなりの高齢となった経験者たちが最後でした。
山陰の農村に魚の行商に行った人々は、お得意さんの農家から非常な信頼を得て回っています。
中には家の者は皆田畑にでて仕事をしているので、行商人が家に上がり込んで魚を冷蔵庫に入れ、代金も貰って帰るといった家族同然の付き合いをしていたところもあったそうです。
そういった人間関係も一緒に消え去ってしまったということでしょう。
第5章には行商列車ということから離れて日本の食文化の中での魚の位置ということを論じています。
日本は魚食の社会だと言われていますが、近代以前には生の魚がふんだんに食べられるという場所は漁村のすぐそばだけでした。
多くの地域は干物や塩蔵として加工されたものを長距離を輸送して(人力や馬で)運ばれたものを正月やハレの日に食べることができただけでした。
大晦日に食べられる「年取りの魚」としては東日本はサケ、西日本はブリと言われますが、これも輸送可能なように加工されたものを何か月もかけて運ばれたものでした。
長野県の伊那谷地方はブリが年取りの魚ですが、これは富山県の氷見地方で取られ、加工されたものを馬に積んで長く運んだものでした。
それがようやく鉄道網が広がった昭和も戦後になって鮮魚が運ばれるようになりました。
日本人が本当に魚食民族になったのもその時期だということです。
平成26年、著者が長く取材をしていた大阪の西成区にある、伊勢から毎日魚を運んで商売をしていた店舗「伊勢屋」が閉店しました。
夫婦二人でやっていたのですが、ご主人が急逝、奥さんも足を痛めてしまい続けられなくなったということです。
続けられなくなった奥さんも残念でしょうが、毎日そこで魚を買うのが楽しみだった顧客たちもさぞかしがっかりしたことでしょう。
スーパーでパックに入った魚を買うのとは全く違う買い物ができなくなりました。
各地の鮮魚の行商もこれと同じ価値を持っていたのでしょう。
運ぶ人が厳しい眼で選んできた魚を良い状態で持ってきてくれるというのは、とんでもない贅沢であったということです。