辞書と言えば三省堂というのが決まり文句のようになっていますが、その土台を作ったのが、ケンボー先生こと見坊豪紀、そして山田先生こと山田忠雄の二人でした。
始まりは戦前の昭和14年、まだ文語体の辞典を使わざるを得なかった時に、三省堂の募集に応えたのが東京帝国大学文学部国文科出身で大学院生であった見坊でした。
見坊はわずかな期間で新しい国語辞典、「明解国語辞典」を作り上げました。
そしてそれを手伝ったのが東京帝大で同期だった山田だったのです。
しかし見坊は現代語専攻に対し山田は古典専攻と違いはありました。
しかし戦中戦後の厳しい世相の中で生活のためにも貴重な収入でした。
昭和18年に刊行された「明国」は画期的な辞典として受け入れられますが、ただしこの辞典には二人の名前は出ていません。
その辞典には「文学博士 金田一京助編」とのみ書かれており、実際には何の仕事もしていなかった彼らの恩師金田一の名前のみでした。
終戦後、この二人にやはり東京帝大で一緒だった金田一京助の息子の金田一春彦と共に明国の改訂版を作り出します。
そこにはすでにそれまでの辞書の悪弊、他の辞書の用例の盗用といったものからの脱却が目指されていました。
さらに編者とか監修といった名目で大先生の名で出版することも抜け出そうとしていました。
なお、明国改訂版には大きな欠陥がありました。
戦後すぐにはまだ「現代仮名遣い」というものが確立されておらず、また古典仮名遣いで作るわけにもいかないということで、見坊の主義で「表音式」で見出しを作られていました。
「右往左往」を「うおうさおう」で載せず、「うおおさおお」としていたのです。
ところが現代かなづかいが確立されてきた昭和30年代に入ると、それを誤解してしまう人が増えてきて、学校の試験で間違いにされたというクレームが入るようになりました。
これでは売れ行きにも関わるということで見坊には「学習用だから」ということで納得させ、ようやく現代仮名遣い採用となったそうです。
そういった変更を含め、今度は明国の改訂版ではなく「新明解国語辞典」として出版することとなりました。
ところが、見坊はその制作過程で「用例収集」にのめり込んで行きます。
本書執筆にあたり、著者は見坊の子息子女にインタビューを行いますが、彼らは父親の姿として言葉集めに没頭しているところばかり見ていました。
見坊は結局最後には145万例もの用例を収集しました。
しかし、そればかりに没頭しすぎ、最初の明国出版の時には1年でほぼ一人で辞書を書き上げたのに、さっぱりそちらの方がお留守となってしまいます。
困り果てた三省堂は、新明解の出版は山田をメインとして進めることとします。
その頃、消費者目線で商品評価をしていた有名な雑誌、「暮らしの手帖」が国語辞書を取り上げたということがありました。
そこで指摘されたのが、どの辞書をとっても書かれている内容がほぼ同じ。
つまり「盗用されている」のではないかということでした。
それが事実に近いということを知っている山田は、辞書の語釈は独自のものとすべきだという信念を持ちます。
そして、そうして書き上げた新明国は読者にも受け入れられることになります。
ただし、最初は助手扱いをしていた見坊はその著者からも外されていました。
それを山田は独断で完成した辞書の序文に書いてしまいます。
「見坊に事故あり、山田が主幹を代行した」
これを昭和47年1月9日に新明解の完成を祝う席で初めて見せられた見坊は激怒してしまい、それ以降二人は絶交状態となってしまいます。
覚悟の上の行動だったとはいえ、衝撃を受けた山田は、その後出版した新明解の4版で、「時点」という語の語釈の部分に次のような謎の文章を使います。
「1月9日の時点では、その事実は判明していなかった」
しかし見坊はその後同じく三省堂から「三省堂国語辞書」を出版、まったく色合いの違った辞書としてこれも売れ行きは上々となります。
その後、見坊は1992年に77歳で、山田は1996年に79歳で亡くなりますが、死ぬまで二人は和解したということはありませんでした。
しかし残された文章などを見るとどちらもお互いに許し合っていたようです。
いずれも大きな仕事をやり遂げたのですが、やはりどこかでぶつかる運命だったのかもしれません。
私の本棚にあった辞書は何だったかと思ったら、新明解でした。