爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「主権者のいない国」白井聡著

「永続敗戦論」でも目を見張らせるような解析力と表現力を見せて頂いた白井さんですが、その最近の評論などをまとめたものがこの「主権者のいない国」です。

 

「永続敗戦論」よりさらに的確に鋭く政権の、そしてそれに投票し続ける日本国民の愚劣さを描写しています。

 

私も安倍政権の当初から、これは「史上最低最悪の宰相だ」と言い続けていました。

さらに「こんな政権を支持し続けている国民がアホだ」とも言ってきました。

しかしそこで止まってしまったのが白井さんとの大きな違い(というか当たり前なんですが)でしょう。

本書53ページにも書かれているように、

「選挙による審判を経ずしてこの長期政権が維持されてきたわけではない。したがって帰責されるべきは結局のところ国民である。(中略)なぜ日本国民は「安倍的なるものを」を好んできたのか。「安倍的なるもの」に体現された国民の精神は何であったのか。」

というところに矛先を向けて行きます。

これに関してはすでに前著「国体論」煮て論じているということです。

戦前の天皇制国家から引き継がれた臣民メンタリティに内在する奴隷根性を指摘したそうです。

本書ではそれをさらに深く掘り下げています。

 

安倍政権のすべてがその基調に即するものかどうかは分かりませんが、それでも安倍が「世界で一番企業が活躍しやすい国」としていたのですから、安倍政権が新自由主義であったというのは間違いのないことでしょう。

サッチャーレーガンが取り入れた新自由主義はすでに破綻したにも関わらず、なぜ日本で復活しているのか。

それはよく言われるような「小さな政府」とか「自由放任」といったものは実は新自由主義の本質では無かったということです。

その本質が安倍の「企業が活躍しやすい国」に現れているということです。

それをおぜん立てするのは決して「小さな国」などではなく、政治権力自身が強力に後押しすることで初めて力を得ることができるというものだったのです。

 

新自由主義は「社会」というものも消滅させました。

著者は大学で社会科学を教えており、学生には何らかの社会問題の発見をしてもらいたいと願っているのですが、最近の学生は「学びのきっかけとして、自分が気になる社会問題を挙げて簡単にプレゼンテーションしなさい」という課題を出しても、「本当に何も思いつかない」という者が続出するそうです。

彼らにとってはこれはまったく想定外の課題のようです。

もはやメディアリテラシーの基礎を教えるといったことすらできず、「せめてテレビ位見るようにしましょう」と言わなければならなくなりました。

若者層がこうなったということは「この国は底が抜けた」と言わざるを得ないということです。

 

国体というものを何とか守ろうとしたのが、敗戦時の天皇を中心とした権力層の工作の基礎であり、それは天皇戦争犯罪の棚上げだけにとどまらず、退位すらせずに地位にとどまるという成果をあげました。

しかしこれはもちろんアメリカ側の意向にも沿ったことであり、共産国に対する持ち駒として最大限に活かすためには体制をそのまま乗っ取った方が手早く効率的だという観測から来たことです。

その結果できたのが「戦後の国体」であり、ここでは戦前の天皇にそっくり入れ替えた形で「アメリカ」というものが座ってしまいました。

そのため、戦前のファシスト勢力はそのまま「親米保守派」と生まれ変わることができ、戦後も権力者として生き永らえることができました。

2016年にオバマが来日した時広島を訪れましたが、米日の権力者たちにとっての「原爆」とは何だったのか。

原爆投下はすでに大勢の決まった日本敗戦にはほとんど関係なく、ただただ戦後のソ連の影響力を極小化することだけが目的だったわけです。

原爆投下直後に日本が降伏したことにより、アメリカは事実上の日本の単独占領を実現し、戦後日本の設計もほぼアメリカのフリーハンドで行なうことができました。

結局、日本の旧ファシスト勢力をそのまま継承した親米保守勢力にとって「原爆投下」とは何だったのか。

それはまさに「天祐」というものだったということです。

これで早期降伏が実現しアメリカの日本における覇権が確立したことにより、彼らは首がつながったというだけにとどまらず、復権まで果たすことができました。

そのアメリカの大統領が広島を訪れたというのは茶番でしかないということです。

 

他にも沖縄問題、朝鮮半島など、斬新な視点で目を開かせられることが多い本でした。