爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

子供の名付けと日本語

キラキラネームやら難読名付けやら、徐々におかしなことになっていると思っていたら、戸籍に読み仮名を付けるなどと言う政府方針が出たために一気に情勢が混沌としてしまいました。

 

政府の考えはどうも単に「デジタル化がやりにくい」といったバカな魂胆からのようですが、それがどうしても混乱を増大させるのは明らかです。

 

これの源流には子どもの名付けをする若い人々の感覚の流れがあります。

 

昔は名付けの権限も祖父にあったり、親戚一同の合議などと言うこともあったようですが、現代ではほとんどが子供の両親、それも実態は母親にあるようです。

そして、その名付けに対し「子供の名前は親からの最初で最大の贈り物」などと言う一見美しく聞こえるような言葉が流れ出し、それに乗せられた母親たちの名付け活動が広がっていったようです。

 

そこでよく聞かれた言葉が「世界でただ一つの名前を付けてあげたい」という、当たり前のようにも聞こえますが実際には全く不可能な希望でした。

 

そもそも、人間の名前が「世界で一つだけ」になることはほぼ不可能です。

もしも11ケタの数字が名前ということであればそれも可能ですが、数字の羅列を名前と認識することはコンピュータでなければできないでしょう。

そのため、「自分たちの世代や親の世代には無い名前」をネットや雑誌で探すといったことになり、結局は似たような名前の赤ちゃんがぞろぞろと言うことになっています。

 

名付けの実態というもものは、現代であっても法律的に一定の範囲内に決まっている国(かつてのフランスなど)もあり、宗教的にほぼ限られている国もあり(イスラム教国、キリスト教国など)、そういったところでは非常に少ない候補の中から選ばれています。

比較的自由なのは東アジア各国、日本、韓国、中国などでしょうが、それでも中国・韓国は用いることができる文字が漢字・ハングルと言うものだけですので、それほど突飛な事ができるわけではないでしょう。

 

ところが、日本ではその日本語の特性(漢字と仮名の同時使用および漢字の読み方の自由性)、そして戸籍の運用上の特性(漢字の読み仮名を指定せず曖昧にしている)から大混乱が発生することとなりました。

 

まずは「漢字の読み」という問題から。

漢字には「音読み」と「訓読み」という読み方があり、しかもそれぞれ複数の読み方があるため何通りにも読めるということは多くの人がご存じでしょう。

音読みとは中国から漢字が伝わった時にその読み方として伝えられたものです。

ただし、伝わった時代により中国での読み方にも違いがあり、それをそのまま受け入れたために音読みにも呉音、漢音などという違いができてしまいました。

「行」という字を「コウ」「ギョウ」「アン」などと読み分けるということが知られています。

訓読みはその字が表す事象の日本での意味を示します。「行」でいえば「おこない」「いく」などです。

このような歴史の展開から、一つの文字に対してその読み方が多数存在するということになりました。

さらに状況を複雑にするのが「名乗り読み」という読み方の存在です。

「朝」を「とも」と読む、「光」を「みつ」と読むといった読み方はその理由が判然としません。

しかし古くは平安時代からこういった文字をこの読み方で名前に使っている例があります。

今さら止めることもできませんが、事態をさらに複雑にしています。

 

日本では現在は戸籍というものが国民すべてに作られています。

こういった戸籍制度が確立したのは明治初年ですが、江戸時代にはキリシタン禁止のために始まった菩提寺による管理を流用し寺の作る宗門人別帳が戸籍の代わりになっていました。

明治になり戸籍も国内一律となるのですが、そこでは様々なバラつきが多かったようです。

すべての国民が苗字、個人名を届け出たのですが、漢字の字体も全く統一できておらず、出願者の書く通りに認めたようです。

斎藤という苗字に使われる「斎」という文字には非常に多くの異字体があることは話題になりますが、他にもこういった事例はあるのでしょう。

また「漢字の読み方」までは登録しないこととしたために、名前をどう読んでも自分の勝手ということにもなりました。

この辺の事情の詳しいことは分かりませんが、その漢字をどう書き、どう読むかということまで役所の係員が判断するということは不可能だったからと考えられます。

現在でも漢字に関わる学説には多くの議論があり、とても統一見解などはできるはずもありません。

学校で教える教育用の漢字にはある程度統一されているように見せていますが、これも文科省の都合だけで作られているものであり、正統なものとは言えません。

 

こういった事情があるにも関わらず、今回政府が「戸籍に読み仮名を」ということを言いだし、それを単に法律や行政、戸籍の手続きの専門家というだけの連中が審議をしているということで変なことになるのではと危惧されます。

 

その方法にはいくつかの案があるそうです。

一つは「なんでもあり」

一つは「政府が基準を定める」だそうで。

 

「なんでもあり」だけは止めてほしい。

これまでの千年以上もかけて作られてきた日本の漢字の文化を完全に破壊してしまいます。

これまでも危うい状況だったのですが、それでも戸籍の漢字の読み方というものは自由だということで済ませられました。

しかし戸籍として登録されたということは国家によって認められたとも言えるもので、そのような変な読み方まで国公認と思われては大変なことになります。

 

「政府が基準を定める」などと言っても、誰がどうやって決定するのか。

またお気に入りの学者を呼んできて作らせるのか。

そうしておいて形だけパブコメ募集したり、各地で説明会をしただけでスタート。

やりそうなことは想像できます。

なにしろ、学者と言っても言うことは千差万別。

「海をマリンと読むのもアリ」などと言うのも居るようです。

どんなものになるのか、予測もできません。

 

(ついで)

「海をマリンと読む」のはなぜ困るのか。

「訓読み」は漢字の日本での意味を表わすものだから「マリン」でも良いのではと言われそうです。

確かに「意味」で読み方を決めるのが訓読みですが、さて「漢字の日本での訓読み」を決めるのに外国の意味を考慮するとどうなるのか。

 

どうせ、英語かその原語としてのギリシャラテン語程度しか想定していないのでしょうが、世界各国様々な言語があります。

これらすべての読みを認めるのか。

たとえば「海」であれば次のような言葉があります。(原語は書くのも難しいのでカタカナ表記)

シー(英語)、ダーハァイ(中国語)、バダ(韓国語)、マル(スペイン語)、メール(フランス語)、バフル(アラビア語)、モーリェ(ロシア語)、メーア(ドイツ語)、マレ(ラテン語

さすがに「英語以外は認めない」などとは決められないでしょうが、そうなると「海」と漢字で書いてもそれを何と読むのか、全く判断もできなくなります。

日本の戸籍でそこまで大きな問題を作り出す必要は全く無いと思います。

 

「戸籍に読み仮名を」ということはニュースでも報道されましたが、これにこのような大問題が含まれているということはほとんどの人が考えもしないことでしょう。

しかしもうちょっと良く考えてみてください。

特に若い人、あなたたちの子どもの名付け、そしてこれからの日本語の将来がかかっているのですよ。