なんと読んで良いか分からない、「難読漢字」というものは多数あります。
それらを羅列する本は数多くありますが、この本はそういったものとは一味違います。
なぜそのような読み方をするようになったのか。
そういった物語を解析し、難読漢字をグループ分けして見せます。
それを頭に入れておけば全体像が見えて来るかもしれません。
漢字の読みには音読みと訓読みがあるということは分かるでしょう。
音読みは、中国から漢字が入ってきた際、その読み方として一緒に伝わった中国語読み。
訓読みはその漢字の意味に対して対応する日本語の意味。
ところが、それが一つだけではないことから様々な読み方ができることになります。
奈良時代から平安時代の初めにかけ、遣隋使や遣唐使という国からの正式の使者が中国を訪れ、それには多数の学者なども随行していきました。
彼らが中国で学んできた漢字の読み方が「漢音」です。
しかし、それ以前にも大陸からの渡来人によって漢字は伝えられていました。
数百年も前の時代でもあり、またその渡来人の出身地は南方が多かったため、読み方は漢音とはかなり違いました。
それを「呉音」と言います。
さらに10世紀以降にも中国から伝わった読み方も別にあり、それを「唐音」と言います。
これらはかなり異なることもあり、そのどれを取るかで全く違った読み方になります。
訓読みはその字の日本語での意味ですが、それも一つだけということはなく、色々な意味で使われる場合もあるため、一つの字の訓読みにも数種類存在することがあります。
「開ける」と書いても「あける」「はだける」と読む場合があり、また「動」という字も「うごく」とも「やや」とも読みます。
中国語から日本語への翻訳をしていることになりますので、意味が分かれる場合もあるということです。
これは英語も同様で、RUNという言葉も「走る」「逃げる」「経営する」などと訳し分けることが普通ですから、同じことでしょう。
意味を優先して漢字を当てる「当て字」というものも各時代で様々なものが作られてきました。
中国では仮名というものが無いため、外来語にもすべて漢字を当てているので、仏教用語などではサンスクリットに漢字を当てた言葉が多数あり、(袈裟、菩提、卒塔婆等々)それがそのまま日本にも入ってきていますが、同じようなことが日本でも行われました。
明治以降ではヨーロッパ語の流入に対し、意味を考えて言葉を作ることも行われましたが、意味は不問で字だけを当てるということも行われました。(三鞭酒、浪漫的等)
地名の場合は顕著で、これには日本で作られたものもあり、中国で作られたものもあります。
地名の難読というものは非常に多く、これだけで一冊の本にしているものもあります。
しかし、その地名が成立し長い時代をかけて引き継がれてきた歴史を考えると、そこにはちゃんと理由があるということが分かります。
千葉県にある「八街」(やちまた)
街を「ちまた」と読んでいますが、今は巷と書くことがあるものの、古語では街をそう読んだためのようです。
鹿児島県の郡名「肝属」(きもつき)
「属」は何かにくっついて存在するという意味ですので、古語で「つき」「つく」と読んだのでしょう。
なお、「足利」は大きな都市であり、また人名としても有名なため、「あしかが」と読むということは誰でも分かることですが、「利」を「かが」と読むという理由はほとんど知られていません。
これは、古語では「かが」が「利益」を意味していたからだそうです。
同様に、国名、郡名などとなっているために良く知られているものですが、駿河、敦賀、平群などもその読み方は通常の漢字の読みからは簡単には想像できないものであり、単に良く知られているから皆読めるだけだとも言えるものです。
なお、平安時代に地名には良い意味の漢字二文字にするようにという国からのお達しが出たことで、漢字の読み方が混乱することになりました。
泉の国(大阪府南部)は一文字だったために余計な「和」をつけて「和泉」になりました。
また上毛野、下毛野の国(群馬・栃木)は「毛」の字を取ってしまい、「上野」「下野」とするということになりました。(読み方は変えない)
そのため、「け」はどの字かと分かりにくくなってしまいました。
漢字の読みということも、やはり長い歴史で様々な動きがあったということでしょう。