爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「内田樹の研究室」より、言論の自由について

参考にさせていただいている「内田樹の研究室」に、言論の自由についての文章が連続して掲載されています。

もちろん、それはあの新潮45の問題によるのですが、内田さんも言論人として発言はせざるをえないところでしょう。

 

blog.tatsuru.comこれは、以前に掲載された文章を再掲載したということで、内田さんの言論の自由についての基本的な考え方というものが記されています。

最後の一文がそれをまとめたものと思います。

 

 言論の自由」には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思うのである。

 そして、言論を発する自由というものは、「その場に対する敬意を滋養にしてしか生きることができない」ということです。

つまり、その敬意を伴わないもの、言論の場を呪うようなものは自由に発することはできないということでしょうか。

 

さらに、おそらく上記の文章に対してある編集者からメールを受け取り、それに対しての文章も掲載されました。

blog.tatsuru.com新潮45に掲載された最初の文章、そしてさらに問題を大きくした続いての文章には、「読者に対する敬意」が存在せず、単に書くものすべてを受け入れる「身内」だけに対するものだったということです。

 

「身内だけに対して発信」するものは「言論」ではなく自派の機関紙のようなものということでしょうか。

それでもそのような機関紙も一般の言論の場のような顔をして存在しているのが現代ですが。

 

なお、内田さんはテレビの番組にはそのような「敬意」が感じられないのでもうほとんど見ていないということです。

 

「言論の場」というものをしっかりと捉えた考え方なのでしょうが、ネットの中などにはそれとはまったく異なる混沌の場が出来上がってしまいました。

そのようなところから、言論の場に紛れ込んでくる輩が頻出すれば、このような問題はいくらでも起きるでしょう。